南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

プチ(無知)・ジブリ

なんか辞典を書いてみて、「見たまんま」とやったら、【見た飯】になったので、さらに派生してみよう。といっても話が続かないかも。

紅の豚』という作品に、空賊の一団「マンマユート」という連中が出てくる。あの「マンマ」というのは【飯】のことなんだろうか?『ナウシカ』だと、歴史上に出てきそうな人物名なんかが多いんだけれども、監督の趣味と空想をぶちまけただけの『紅豚』には、モデル地(オーストラリアの一小島)以外は、あまり名前に凝ってない気もするのだが、ユートというのは、「勇徒」に落ち着くと考えて良いかもしれない。そうすると、マンマは飯ではないのか。なにかいい訳が欲しいものである。

それと紅豚ついでに、ポルコは自ら魔法をかけて豚になったという説がある。しばらく前に再放送をやったとき、この説がキャッチコピーで出ていた。比較的ジブリアニメを研究し尽くしている南蛇井とその家族でも、この点にはクエスチョンが出た。

南蛇井が考察するに、彼自身は望まなかったが、そうせざるを得ない境遇にあった、と考えている。彼が男を全うするため、そして飛行艇乗りとして社会に流されず、また格段に女と乱れるわけでもなく、個人として生きるための手段だろうと。別に彼に情けが無いわけでもないし、世の中に反抗するわけでもない。豚になるということは、それだけ人々にとってあまり役に立たない不要な存在であることを見せ付けると同時に、去年何かの講義(大学)でやった僧侶的(ニーチェだったかな)ではないが、そんな行為で彼なりに目立ちたいのかもしれない。豚は実に俺の心理と生き方を反映している。

紅豚は巷において、監督の趣味に塗れた、最もメッセージ性の無い作品とされている。敢えて言えば、あのキャッチにいつも書かれてる《カッコいいとはこういうことさ》という、監督の提示する格好よさの一種なんだろうけど、これは一般的に叩かれどころで、真っ当な仕事もしないで、女にデレデレして、いいところだけを一本釣りするような男の、どこが格好いいのか、そんな人間を将来目指す奴が出てきたらどうするのか、といった教育性の批判が強いらしい。言いたくならんでもない、真っ当に生きられる人間ならば、だ。

もし教育のつもりで批判するなら、寧ろ彼のような豚になる選択肢があってもいいものだ。まぁ南蛇井から言わせれば、格好よさを主体にする見方で無く、どんなに知識や技術があっても、人間との関わりの中に不信感や息苦しさを感じずにはいられない性格というか、過去の経緯(いじめ、家庭内問題、少年犯罪等)がある者がいるということだ。無論、過去のことでその人間の価値が判断されるのは、その人間として本意ではない。だから豚として、表面を抹消するのだ。そして恰も、今の自分が過去の流れ無しに、その生き方を形成しているかのように叩き上げる。ホリエモンもその一種だ。従って、またそれを正面から引き合いに出す心理学者、メディア、各種専門分析者こそが、紅豚の悪質な批判をしている張本人なのだろう。誰にでも陰はある。それをどう克服したか、または克服しないで引きずっているように見せるかは本人の自由だ。そして、それは経験値として考慮されはするものの、批判そのものの対象としてあるべきではない。問題は現実の生き方なんだろう。

監督は、格好よさをわざとテーマにしながら、そこにメッセージを持っていくつもりだった気がする。ただ、カッコよさが前面に出すぎたところが、芸術としてのアニメーション映画のインパクトの強さによる毒だったのか、それとも作品を世に広める媒体がメディアであることがメッセージの的確な把握を誤らせたのか、未だに価値の高い評価は得られていない模様だ。