南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

相互依存と愛国論

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 幾分ゼミの内容と関係あるかもしれない。最近ゼミでは国際関係のあり方として、相互依存にこだわっている。ポスト冷戦の世界構造として、相互依存が重視されているようだ。新しい中世と位置づけられたこの時代は、自由主義的民主制が浸透し、市場経済が根付いた国境の無い社会。そして、国民国家民族自決の精神は近代に葬り去られる。次稿で、この新しい中世の進度を示すような圏域分類について記すつもりだが、近代を彷徨う国が多いアジア地域では、新しい中世と定義するような相互依存は成立しにくい。先日出席した、アジア・太平洋研究センター開設に伴う記念講演会でも、歯切れが悪く要領を得ない話だと思っていたが、後で考えると上記の前提があったのだと思われる。
 もう少し人間味のある話をしよう。昨年の夏を経験してから、心の寂しさにしばしば襲われる。軽い存在を求めて電子会話を訪れるのだが、そこでは筆者と同様に誰もが相手を求めている。そして、常にそれは一時的であり、極めて空疎である。誰もが異性の心を解することに自信と不安を持ち、惚気とも助言ともつかぬ妄言を吐きかける。所詮、その自信と不安も、異性という名のケータイアドレスを保持するための労力に過ぎない。それが無くては社会での自分の存在がなく、しかしいつでも破棄できるような軽い存在であることをさも被害であるかのように語る。恐らく彼らは、これこそが相互依存だと思っているのであろう。
 もっと永遠恒久のモノを人類は愛せないのか。上記のような相互依存に流れ、それを正当化し国際社会の定義とするのか。相互依存は単なる国際問題でなく、身近な生活を発端としている。自由主義的民主制と市場経済は受容するとしても、新しい中世と位置づけられる世界に、中国などの近代国が組み込まれていく中で、国家を愛しその中に自己を位置づける観念は崩壊するのだろうか。国際社会の中に自国を定義し、歴史を見据え、政治と市民社会を一体化させるような愛国の、どこが現在の潮流に合わぬのか。あるいは近代であることの不都合が何処にあるのか。相互依存は、個々の根がしっかりしなければ、まともに成立しはしない。まずは、国を愛せ。
結:「新しい中世」ではない。「新しい近代」だ。【2005/07/04/PM】