南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

憲法前文を読んでみよう

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 先稿の2段落を繋いで考えてみよう。日本は戦後、筆者のような戦争が何かを認識できない世代を生み出してしまった。互いを尊重しあう教育がなされなかったのだろうか。
 日本国憲法前文では、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。」とある。
 戦後、日本国民は様々な生活の不平等・不公平を憲法の条文に諮り、改善してきた。ここに、基本的人権は体現されたといえる。恐らくGHQも想定したであろう、かの教育勅語を盲目的に暗誦した日本国民が、新しい憲法の前文を容易く吸収することを。ところが、NPO法人などを除けば、日本国家が他国の平和を促進させることはおろか、政治・経済的には復興させたものの、未だ戦後日本本来の国としての自覚すら明瞭でないのだ。戦前戦中の日本国は暗闇に放棄され、戦中モノを言えなかった政治家が指揮を取り復興させた日本を、心身ともに少国民を謳歌していた世代が今担う。戦後補償に服し、一方で外国人居住者に厳しい目を向ける。挙句の果てに憲法前文の改正と来た。間違いなく、憲法前文は誰にも読まれぬまま、戦後のお荷物として廃棄されてゆくだろう。いま政治を動かす者に理解できなかった新しい平和や憲法を、戦争すら経験しない我らの世代がどう呑み込めというのだ。
 「いのちの対話」が語るのは、空疎な日本の愚かさであり、戦後日本が果たさなかった平和への役割に対する悔恨のように思えるのだ。それは同時に、戦争放棄が全くの「放棄」で、分別処理でなかったことをも物語っている。
結:いま真剣に戦争と平和を語り、戦後処理をするにはどんな人材が適切なのだろうか。【2005/07/18/PM】