南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

歴史の主体的な学び方(2)

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 日本は近代的な法律の下、戸籍制度も整えられ、全国民を戦争に参加させることが可能な制度が整えられていた。それは確かに非難されるべき実態であろう。しかし、「当時は」少なくとも「戦争初期は」、国民の多くが妥当と考え承認したものである。そして、それに従って日本は西欧帝国主義の打倒を目標に、各地に侵略戦争を拡大したものの、最終的には武力と国力の低下も伴って日本本土を攻撃されるに至った。その結末が広島と長崎の原爆投下である。
 中国は当時、日本と戦うだけの国内の統制が効いていない。従って、南京事件での死者の多くは民間人であり、所謂「非戦闘員」であろう。死者の数に関しては未だ議論の続くところだが、民間人大量虐殺の事実は揉み消すことはできないであろう。
 ここまでの一読すると、結局筆者は自虐的教科書を援護しているではないか、と思われるかもしれないが、実はそうではない。従来の教科書も新しい歴史教科書も、日本の加害行為をどう受け止めるかは一定の相違が見られるものの、加害認識の際に自らの被害事項を持ち出し、その第三者からの非難を求めているだけなのだ。自国側の被害状況を比較し、こちらも同等の被害を受けているのだから認めてくれ、と甘えているに過ぎない。加害行為と決め付けられ、非難だけされているという被害妄想、被害事象を無視されているという被害者意識、それを学んだ日本の若者がどうして主体的に生きられようか。
 初段落で述べたように、日本は「必然的に」戦い、「必然的に」攻撃を受けた。南京事件も、原爆投下もその一連に過ぎない。日本が明治近代に踏み入れてから必然的に、国民と政府が一体になって歩んできた証しが各々の事象に現れている。それを戦後の平和な時代に、過去の完全否定をしたうえで、彼ら市民は非戦闘員でした、だから彼らは米国に攻撃されて不自然です、というのは余りにも図々しく思われる。そして、筆者の考える最たる教育法は、その歴史が学習者にどのように利用されるか、どのように思考されるかを個々人に任せることである。再び戦争を起こさないように誘導する歴史教育は、妥当と言い切れない。それは真実を知る上での妨げになり、且つ自ら思考した史観をもち主体性をもって行動する人間となる障害ともなりうるからである。
結:現代史観を完全否定してみろ。【2005/10/14/PM】