南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

就活迷妄

今日は講義がなかった。2時から代替として『自分発見!講演会』というキャリアサポート室による企画講演があったので、あんま就活とか気乗り氏ねーなどと他人事のように考えている斯の男も聴講してみた。そしたら、やっぱ当たった。人生気乗り氏ねーと思っても、ただ単に行ってみるぜ、とやると大抵当たる。就活ガイダンスなど行くよりも、やっぱ価値がある。
仕事は自分でつくる。石の上に3年いちゃ駄目だ。自分の価値観で切り開け。ビジネスマンになるか、アーティストになるか。自分の感性が他人に認められて、買ってもらえることでお金が手に入る。
そりゃ、名企業に入社して、昇進して、安定した家庭を持って、一つの職業を熱心に地道に成し遂げてこそ人間として認められる、ってのが従来の価値観だ。でも、今就職していく若人の中で、それに納得する連中がどんだけいるんだろうか?数年で転職、フリーター。わしのバイト先でも、今の職では食ってけないからってバイトして稼いでいる「兼業」もいる。今働き出す人間が「一本」を決め込んでいけるほど、世の中は単純じゃない。今日の講演者は、講演家(イニシアティブ・スピーカー)、翻訳家、英会話講師などを肩書きにもっている。それでいて彼は、聴講者の質問に対して、自分もフリーターだと語った。一億総フリーター化も遠くはない。その中で如何に自分のカラーを見つけ、それを一般に売り込めるところまでもっていけるかが、彼と普段見るフリーターとの唯一の境目じゃないかと、わしは思う。
勿論わしだって、そんな生き方が親類に解されるならばそうしよう。だが、世間はまだまだ甘くない。先日亡き祖父の命日のため、一家が集まった。就職なんぞ地の果てに吹き飛ばして、昭和だとか台湾だとか植民地と国土はどう違うかとか訳分からんことを脳中でのたまっている南蛇井に、容赦なく、「そろそろ就職活動だね」とか最前線だとか面接はどうだとか集中砲火を浴びせる。特に父方の従姉妹は年上の女性ばかりなので、みんな就職戦線を済ませておる。一家初の男子が如何なる行動に出るのか、かなり注目したいらしい。両親は、わしが就活などすっぽかしている事をうすうす気づいちゃいるが、とりあえず道を外れんことを祈って折るのだろう。ましてや普段わしを見ることのない親類のことだ。まさか酒宴でも大人しくしている21の青年に、「日本は1945年に立ち返り、真っ当な戦争史観と愛国精神を確立するのだ」などと国会議事堂で唱えることが出来るなどとは思っていまい。勿論そこまでする気はなんとなく失せてきたのだが(ぉぃ。ま、兎も角として、これ以上真剣に語ると先回とーくの続編に突入する恐れがあるので、危ういところだがこの辺で就活編ぽく締め上げておきたい。

やっぱね、人の期待に応えんとする行為は私には向いてないと言うことです。個性や感性は人の期待に沿うように修正させて売れるものにするものじゃないわけですよ。親、親戚がまともな企業や公機関に就職してほしいと思う。それは(ここでは親心と呼んでおきますが、別の機会ではどうなるのでしょう?)、プレッシャーとして我々の本当の人生を歪めてしまう。だけど一定の強制力と枠組み、モラルを提示して置かないとフリーターがプータローの域に飛んでしまう。もそっというと、国もそうなんですよね。自由主義とか民主主義とか個人の自由とか認めるのはいいけれども、やっぱりこう域を脱するものがあるじゃない。うん、それは欲しい訳よ。
だども、わしはプータローをノーとは言いたくない。それじゃ矛盾してるけ?いやいや、どうなんだろう?
最近凶刃的狂言から、ほんねとーくに移行して活動しているけれども、両者一貫させているのは、わしの個性や感性を全く人が読んで共感を呼べるものに仕上げたくない、という精神だ。つまり人の期待がどうのでなくて、それが非情であっても貫きたいという感覚ですよ。なんつうかな、世界に何万通りもある「流れ」のどれとも一致したくないし、どれとも反したい気持ちって誰か沸かないかな。いや沸かないほうがいいか、それ自体一致に値するのだから。
精神的に言えば、自分をぶっ殺して(肉体的じゃないよ)、ただ黙々と地味な仕事に徹するほうが望ましい。個性や感性は公にしないほうがいいし、これ以上発展して金にもモノにもなるわけじゃないし、それ以前に大学生活は枠がなさ過ぎるのでこの先の人生には型枠をつけたほうが有効じゃなかろうか。だけど実際要領悪いし、協調性がないし、ある仕事を身につけるのに何年かかるか知れやしない。それで無意味に抵抗しているわけだ。狭い狭い範囲での抵抗を。

P.S.講演を聴いて思ったんだが、nifty note bookサービス停止に伴う凶刃的狂言の過去記事所存について、出版しちまうってのはどうだろ?