南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

民意と官意

まず反省。昨日書いた亀井氏とーくは随分と生ダラ(生煮えダラダラ)になってしまった。元来K.K.の方で1000字以内を目安に書いてきたので、それなりに要点がまとまっていて書きやすくもあり伝えやすくも在ったのだが、この度ほんねとーくに移行してより、口語で書くと言うことは極めて難しいかを思い知らされた。この勢いでは逆にモノを書く能力が落ちるかも知れない。
それと、一つの文章の中に、ある資料(ネタ)の詳細解説を行うことが苦手であるにもかかわらず、必要であると認識してしまっていることが問題だ。細かなポイント批判をすることが本来の目的ではないということを書いているうちに忘却してしまう。K.K.の場合は字数が限られるから、ある一点に集中して締め上げればよいのだが、制限のない空間を与えられると、竜頭蛇尾の傾向になる。それなりに、言いたいことへの方向性はつけたが、あれは駄文として失笑願いたい。
そういう反省もまた長なりでは仕方ないので、さっさと昨日の本音を片付けてしまおう。ある政権に対する批判、要求といった民意がちゃんと政治に反映されるのが民主主義。有事法案でもイラク特措法でも郵政民営化でも、国民がこれは違う、これは正しいって判断して、それが選挙に反映されるのが、民主主義の生きた形。不況を切り開き知恵を使って乗り越えようとするスターを起用して、努力と根気(だけ)で耐え抜く人々を押さえ込んだ政治にノーと言える国民がいるのが自由の生きた国家。これが、強権政治を阻み、国民一人一人が社会のことを考え、自主的に自由と民主主義を謳歌しようとする本来の意味なんだろう。
ところが、日本において「自由」とか「民主主義」は、戦後になって本格的に誰もが使えるものになった。この「本格的に誰もが使える」というのは、技術の進歩によってインターネットやケータイを安価で利用できるようになるのと同じで、それらがコミュニケーション、通信の手段であるという本来の意味を初めから逸脱した目的で利用することが可能になった現象を言う。「自由」とか「民主主義」が本来の意味を持って日本に登場したのは、大正デモクラシー頃じゃなかろうか。当時は明治憲法下で、言論・出版とか信教とかの規制が厳しく、普通選挙制もやっと男子のみに解放されたばかり。それでも維新よりは呼吸しやすくなってきていた。それが昭和に入ると急に暗転、上の二語は弐度と陽の目を見ないと思われた。1945年以降、それらが復活してきたとき、「本来の意味」の頃から意識している日本人は、勿論いた。だが1945年以降生まれた日本人は、その言葉が当たり前にこの世に存在した。生活の中の些細なことでも、「俺の自由だ」とか、あるいは自己肯定のみならず、他人を傷つけ圧迫する手段にも、「自由」を用いるようになった。今は、自由、平等のなかで、必死になって平等でない誰かを探し、君は平等の中にいないんだ、と虐げる。そんなツールのために、身分、制度、国家その他からの解放として、自由や民主主義は生み出されてきたんだろうか。個性を矯正する枠として明治憲法下の体制があった。でも解放された今ですら、どこにも自由が生きていないじゃないか。
亀井さんは、大人の6割はアホだといった。今は高齢社会だから、大正期に物心のあった人々を除くとその数値になるのかもしれない。しかも残りの4割のうち、認知症やその他身体の不自由な方々を除くと、どれだけの日本人が戦後昭和の「自由」濫用に流されず、現政治体制にモノを申せるのだろうか。
いま、政治は官僚とか族議員とか、あるいは一部の優勢産業界関係者、宗教団体、競争主義信奉の大学教授が、独走で政治を引っ張っている。そして、金と世襲で政界に座り続ける人を排斥し、民間の有能な人材を取り込むことで一新を図れると思っている。また、それに対して、国民の一部では、民間とはいえエリートや活動家なんだから本当に民意が反映されるのか、あるいは古巣のしがらみを断ち切っていくことで自分にとって身近になっていくからいいんじゃないか、あがく奴がヘンなんだとか、とにかく民意へ民意へと近づけようとする。
ところが、だ。今は議員特権の象徴たる議員年金の廃止とか、また郵政民営化とか、官が主導で来ているけれども、民主党案などを検討して真意での改革に踏み切れば、共産党の反発は兎も角として、それは確かに民意だ、といえる日本人が続出する。こないだの選挙では郵政などといっても大して理解もせずに、小泉さんの必死さがウケたんだろうが、そういう演出は抜きにして、まじめな議論をすれば政界改革の意味は通じるだろう。これは、民意と官意(内部抗争は別として)が大方一致した件だ。
一方で、首相が強行し続ける靖国神社参拝問題。これは決定的に民意じゃない。そうでしょう?特定の宗教団体と絡み、戦前の暴政指導者を祀った神社に参ることは、国民感情に背き、またアジア各国における戦争被害者の心理を逆なでする。そして国内では、中韓への配慮だけでなく、自国を再び自由と民主主義から引き離し、戦前の闇に埋没させんとする、といった批判が沸くわけだ。けれども首相は参拝するし、周囲の政治家も理解を示す。読者には暴論と言わせる機会を与えることになろうが、これは民意がアホだから、官がこれを修正すべく、断行し続けるものだと思われる。全部民意に従って政治が動いたら、「自由」と「民主主義」をケータイのように遊び使う日本人の玩具になってしまう。そういう危惧感を示しているのだと思う。官には官意があって、A級戦犯は戦前の日本の指導者であり、英霊は近代国家を築く際に犠牲となった国民であるから、国民全体の先祖として国家が管理する施設に葬るいわば国葬としたいところだが、それぞれに家系があるのだから遺骨などは其々各人で埋葬してもらって霊魂のみ国に預けて頂く。というのは大変理解できる趣旨なのではないかと思うのだが、今ひとつ問題なのが、管理機関の宗教性であって、意図は明瞭なのだが、政教分離がこれを阻んでいる。しかしながら、政界人でも何人でも、ある著名人物が逝かれた時、関係者は早急に弔意を述べられるでしょう?「お悔やみ申し上げます」とか、「対立する立場にありながらも、大変○○でありまことに残念でなりません」とか。例えば首相が死ぬ間際に、『俺の死を悔やんだり、国葬になんかしたら一生日本を呪うぞ』と言い残したとしても、葬儀は行われてしまうだろうし、共産党委員長だってお悔やみ申すだろう。だから、日本において人間の死を悼むことは常識であり、たとえA級戦犯とてその個人に相応な(元々最低限の死ぬ権利とか死後の尊厳は全国民が有するものだと思うが)扱いがなされることは、決して頭から宗教性を含有するものではないと思う。寧ろ、それをA級戦犯くそ食らえ、という民意で無下に扱われることを、官は常に危惧するべきであると思う。
それから、もう一つ例を挙げると、北朝鮮の問題。靖国を長々と書いてしまったので、こちらを要点だけにすると、拉致問題が解決しないからとか、非人道的な政策を飄々と成しているからといって、さっさと経済制裁を与えてしまえ、という民意は、単に自由主義にどっぷり漬かり込んだ日本人の傲慢が汚く浮かび上がってきたもので、そんなものが政治、外交に丸ごと反映されてたまるか、っつう話だ。自分の国が当たり前で、それ以外はパーだっつうのが愛国で憂国なんだと思い込んでいる日本人の、何が民意で絶対的なんだか、わしには分からんところがある。
だから、国会議員というのは、選挙で国民に選ばれて、国民や其々の地域の代表となっているけれど、時には大衆世俗的な言論など無視して、寧ろ官意に矯正するほどの行動力があって良いと思う。