南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

こどもの日

一昨日はバイトに行く直前までガンガン1時間書いたので、祝日とはいえまたまた長編をやるつもりはない。といいつつ、長モノになってしまったらカテゴリに入れようかと思う。もしかすると、同じタイトルが昨年とか一昨年に存在するかもしれないなぁ、となんとなくいやな予感がする。
近年は、大変子どもが減少している。これは、単に少子化を言っているのではない。日本人の子供でなければ、あるいは増えているかもしれないのだ。外国人労働者の子どもが幼稚園や小学校などで割合を増してきている。とくに我の住む東海地方では、それが間近に感じられるのである。英語、中国語、ポルトガル語等での情報提供の整備が一層求められる時代が来ていることは確かだ。
けれど、今日のお題はそんな内容ではない。もっと精神的な面での子どもが減少している。先回、昭和の日の本来の意味について、私なりに解釈を試みた。こどもの日というのは、ご存知のとおり端午の節句、日本の古い節目のひとつであり、公のいかがわしい意図はほとんど無いものと考えられる。しかしながら、端午の節句が持ってきた意味の上での「子ども」たちは、今の日本にそれほどいるのだろうか。祝日は休日、5月5日はGWの一日、節句は節句だが時代は変わった、と葬る前に、少しだけ考えてみよう。
今の子どもは、早くから大人化を求められている。それは、社会の中で管理しやすい人間が多いほうがいいからで、育てやすい子、早くから金の流れに乗せやすい子、大人の意図を読んで順応する子が増殖している。逆にそれができない、あるいはわざと反発すると見られると、あっという間に表では無視されるが、裏社会で管理されていくから結局は歯向かえない。赤ちゃんのときから、あまり泣かない、適度になつく、一人留守番をする、というように親の都合にある程度合わせられる子でないと、虐待の対象になったりする。幼稚園や小学校のときから携帯電話で親と繋がれ、一方で社会と繋げられる。社会は金銭で流れているから、金銭が介すればいかなる利益も交渉もはたらく。援助交際とか、薬物売買とか、一方では犯罪や非行という言葉が使われるけれども、別の言い方をすれば社会からの一種の「管理」に乗せられたにすぎない。こんなことから身を守るとか、健全に生きるとかを、すべての子どもができるわけがないのだ。無邪気とか純粋とかいった子どもらしさを我われはもう、幻想の世界にしか求められないのだろうか。子どもらしさ、という言葉自体が、管理する側の言い分なのだろうか。フリーター、ニート、個性派主義、管理から脱却し、子どもに回帰するようにみえる人々。それは社会問題でもあるかもしれないが、彼らに子ども時代があったかどうか問えば、もしかすると大人から始まって子どもに「成長した」のかもしれない。こういう人間の育てられ方が始まったのはいつごろだろうか。ここは単に昭和・平成に持ち込む気は無い。高度経済成長期とそれが行き詰った時期、学生運動が盛んだった時期とそれが沈静化した白けの時代。とーくが行き詰ってきたので、昨日浮かんだもう一つの話題に振ってしまおう。苦しいながらまとめるとすれば、70年代後半から80年代前半あたりが怪しいと思う。この辺に何か社会的風潮の節目、子どもの定義か立場かなにかを変えるものがあったような気がする。あくまで勘。たとえば消費税の導入、子どもでも誰でも自然に払わされてしまう税金が現れたこと。ヒントになれば幸い。
社会は、身体や言動だけ大人っぽく、あるいは荒っぽくなって、知的にはまだ子どもっぽい連中のことを、ガキと呼ぶ。近年は子どもが減少して、ガキが増殖した。そして、社会は子どもを丁重に扱いつつ管理しやすく加工しながら、ガキを偏見のまなざしで見つつ利潤だけを搾り取っていく。けれど、ガキは決して不良品なのではなくて、正常な反抗期の子どもなのであって、扱いやすいほうと区別(差別)してはならない。日本人はこれまで、人生を楽にするために必死で働いてきた。けれども、暮らしは楽になったが、社会は一層複雑になった。そこで、子孫を育てることさえ簡素化しようとしている。そこまで楽をしてはならないはずだ。子どもというのは、なんだかんだ言って、やはりどこかに親というもの、甘えられる拠りどころを求めるものである。それが親になければ、社会のどこかに求めることになる。それが、利益を搾取する者であっても、管理しやすい人間を育成する場であっても、である。それが子ども本来の姿であって、それを無視するようでは、こどもの日があったところでまったく無意味なのである。
昨日ふと思ったのだけど、今の子どもというのは直接的な恩恵を求めている、というか間接的なものを受け止める力が失われている気がする。まぁ具体的に言うならば、たとえば親が夫婦共働きで子の高校や大学への進学費用を稼いでも、それを子は愛情の一つとして受け止められない、みたいな。親が、「お前の将来のために」とサイドへ心血を注いでも、それはもはや伝わらない。もっと直接的な、たとえば心の悩みなどに真剣に向き合ってくれる人、子の直面する今の問題に向き合ってくれる人、これが子のもつ親の理想像。というのも、今はかつてと違って、小学校でも大人社会並みに殺伐としているのだから。おまけにネット社会というものがある。ここは、本来なら人間として常識だろうと思われることは全て自覚していないと行動できない空間。けれども、難しいところを除去して楽しささえ見せられれば、誰でも入りたくなってしまうものだ。避けさせることは出来ない。平成というやつの簡素化・形骸化が、子どものハード部分をつくってやる事が子育てだった昭和時代の形の隙を突き始めた。昔は、一家庭の重荷を軽くする、近所のつながりや社会全体の温かみがあったそうである。地域が駄目なら、ネット上でもかまわないから、同様なものが復活する必要がある。それは単に、町から軽犯罪を追放するとか、学区に如何わしい店舗をつくらせないとか、そういう自警団的なのじゃなくて、もっと親代わりに子と向き合える大人の集まりが必要なのだ。
うわー、ワードで書くと際限を知らぬな。一つ二つのアイデアが勝手に伸びてしまう。2500字を超えてしまったので、スローガン的にまとめてみよう。「子が子である時期を一定量もたせること。」 そこは子の聖域である。子が主体である。いかなる利益もそこへ干渉してはならない。いかなる成長にも目をそむけてはならない。
今日は2時間近くかけてしまった…。