南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

すべてを失って生きていくということ

党の宣伝をすると、いつのまにか友達を失うという。それはそれで気づいたときに、また取り戻せる気もする。いつのまにか、っていうのは意識していないだけ、気づいたときに考え直せるからまだ良い。
私は元来、「故意に」友人を失ってきたと思う。いや、故意に多くのものを失ってきたと思う。消し去ってきた。無理やり、意識して。失うことへの罪悪感や未練はあっても、それを残虐に握りつぶすことを密かなる快感に変えようと試み続けてきたように思う。それは、自分に素直ではない。
けれど、戻さない。故意に戻さないことだ。いつのまにか失っていたのでは、ふと甦ったりするだろう。手の届く場所で、それをぐいっと一押し遠ざける、その意志が失うことを素直であるかのように変えていく。自らを操作する。わが道を行く。
でも、それこそ保身なんだよねぇ。自らは失ってない。自らまで失える勇気を、私は身につけたい。
いつまで俺は馬鹿をやっているんだろうな。見捨ててくれよ、放ってくれよ。これが一番効き目がある。とくに現代は。赤の他人は何知らぬ。自分を知っているから、すべてを遠ざけ失える。知らない奴は、何も失えない。誰かを常に求めるからだ。知らぬ間に大切なものは失っていても、今この瞬間に必要なもの、あとで無くなっていても問題ないけれど、適時に必要なものは失わない。俺は大切なものであろうが、なかろうが、とことん失ってやるぞ。そこまで堕ちていく俺を、君も失ってくれないか。そうすれば自らも失ったことになるから。自己中心的だな。自覚はあるさ。だから、自らをも捨てきれるのさ。自分を知れば、失うことも存在することも自由自在。神を自称したものは、自分が神でも万能でもないことをよく知っている。だから自らを捨て去り、神になろうとするのだ。彼らは故意に近親者を失うことを厭わない。その先に、自らの存在を示す信者が寄ってくれる世界があるからだ。大切なものを故意に失ってでも、馬鹿を突き進んでみたい人生は如何なものだろうか。
至るところから既存の自らを消し去った上で、超然的な新自分をつくりあげる。でもそれは、時々ふつふつと沸いてくる過去をつぶしながら怯えて生きる姿の裏返しに過ぎない。個人的に、故意に馬鹿を貫いて生きるならまだしも、一国家がそれを遂行してはならない。歴史認識、過去の清算、謝罪、反省。いずれも穏便に決着した事柄はない。それは、何か故意に失いつつも、後ろめたさを60年持ち続けてきた人間がいるからである。戦争末期に国民の多くが味わった恐怖が先行し、後ろめたさが故意に排斥されたことで、あるものを失った。未来を見据えた平和への道は正しかったが、それが過去のほんの一部を改め、その他を押しつぶしたに過ぎないことを漸く今日にして我々は気づきつつある。しかし、その目覚めが不幸なことに、ひとつの暴力的な流れとなってきている。60年前、恐怖と将来への危機感のみにとらわれず、冷静に戦前を議論する余裕が当時の国民にあったなら、いまさら目覚める必要もなく、一時的に失うこともなかったであろう。いま、半世紀前を責めることはできない。現実を生きるものが、いかに失ったものを掘り起こして偏らない議論へ持ち込むかが、重要なところとなっている。
思ったことをそのまんま書いていくと、やっぱりこの辺に落ち着くよなぁ。もっと、俺は何もかも失っても馬鹿をやっていくんや、ということを強調したかったのだけど、それを逆の力に利用してしまった。発想は、段落を変えた瞬間に思いついた。とにかく、日本は中韓に見られているのだから、馬鹿をやっていてはいけない。過去の歴史について、何が正しくて、何が正しくないか、何は中立的に受け止めればよいか、これをきちんと内外に公言していく。押し通していく。共通の認識を共有する、というのは理想主義。先行する者が先行する責務を果たせば、それで良いのだという事に、とくに日本が気づいていない。自らのすべてを否定し失った上で、生まれ変わったつもりの姿を諸国に示しても、なんら意味がないということを早期に自覚しないといけない。あ、目覚めるための自分が存在しないのか。難しいところまで堕ちたな、日本。