南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

知らないんじゃなくて、(off)

実は難しく考えすぎているだけなのではないかい、若者諸君。直感でも広島原爆投下くらいは脳裏に浮かぶのが、遺伝的な日本人の証しなのだよ。というのがもう通用しないんだってば。これには危機感を覚える人と、危機感を感じさせる側と、まだわしは前者にいるということがその時点でギャップを感じる。これはある種の怖さだと。生身で被爆した人間でないことは同じであるけれども、それが少しでも心身にリアルに再現できる世代とそうでない世代。つまり、そこにバーチャルをもってきてしまう種族。これはどういうことかというと、原爆を投下した相手を素直に憎むだけで終わってしまう人間、発展してヤッた奴に仕返しをする、さらに相手を殲滅させてしまう、ということでもあるわけで、結局その歴史的経験(事象のほうがいいか)がまったく後世に生かされない。確かに先代の人々が一瞬にして地獄の底へと突き落とされた事実は、憎しみを生み出すものだけれども、それだけでは歴史が歴史としての価値をもたない。何のために先代が悲惨な経験をしてきたかが、まったくモノになっていない。歴史というのは「繰り返す」とはよく言われるが、寧ろ「利用している」から同じことが起こるのであって、使われないように粉砕(分析)しておけばそのキィは何世紀も甦ってこないんじゃないか。まぁ核そのものはそうはいかないが、それでも実際埋めているじゃないか、ってそれは問題が違うな。
この核兵器の問題は、国内外を問わず、最近になって盛んになったわけではない。日本は被爆したときから、米ソ対立の中でさらなる破壊力・殺傷能力を持つ兵器が開発され、冷戦が閉じると今度は周辺諸国での核開発が進む、この半世紀以上にわたる間ずっと議論が存在してきたはずなのだ。ところが、そんな長い期間議論があったにも関わらず、「何でもあり」の時代になった今、この一極を担うべき非核論が他に流されつつあるように見えるのは、何だか情けない。「何でもあり」だから、核保有論があっていい。それは認める。けれど、日本が最終的に選択すべき一翼が、若い世代にまともに認識されなくなったとき、わが近代史は霞のように消えてしまうのだろうか。
大丈夫さ、心霊信仰だけは若造にも盛んだから、そういうときはお盆に先祖様が帰ってきて叱ってくれるだろうよ。喝求ム。