南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

聖火リレーを追って

改めて开封市の聖火リレーを巡る一部始終を回想し、それを踏まえたうえでちょっと本音を。
私自身もリレーが見れなかった被害者の一人なので、見えない悲劇の記事を読んで理解できる。各地で行われた、選ばれた市民によるセレモニーと数百メートル離れた警戒現場の群衆の姿を体験によって想像することができる。开封も全く同じだった。

年が明けてから、聖火が开封を通るというのは現実味を帯びてきた。7月の末ぐらいになるというので、それまで帰国は待つつもりだった。3月頃のラオシーの話では、河南大学老校区の中を通り(南門前を通るなど多少説が分かれてはいた)、龙亭公园や中山路などがコースや会場になるとされていた。かなりオープンな雰囲気であった。聖火が海南島に近づく頃、开封到達の日程は7月26日と定まった。
4月からは本格的に聖火を迎える工事が市内各所で行われ、とくに中山路は市バス路線が大幅に変更されるほど真剣に改修されていった。穴ぼこだった学校付近の外環路も、一日にしてアスファルトが張り替えられ、ビックリした。後には中山路を走るいくつかのバス路線に、新車(実際は他省からのお古)が採用された。古い商店の瓦礫の山も割りと早く片付けられ、街そのものが改装されていくのが分かった。龙亭公园入り口には大きな中国のリレー図が立てられ、日に日に近づく様子がよめた。残念なのは、鉄道駅の南側、決して聖火リレーの目に付かない場所は手付かずで、金も回らないようだった。
第一の転機は、四川大地震である。帰国してから分かったことだが、四川を最終に回したため、日程が早まるという噂が流れたのらしい。开封も24,25日にズレるとの噂が広まった。河南省内のルートは、山東省より入り、商丘をスタートに开封、郑州、洛阳、安阳と巡って、河北省に出るとされていた。まだ余裕があった。
6月頃からは聖火を模したTシャツ(初期は15~20元1枚、後に10元、5元と値下がってくる)も売り出され、ミニ国旗、ミニ五輪旗(一本1元が普通)を付けた電動車や乗用車が溢れ始める。市バスのフロントにもこの2つの旗をつけるようになった。いよいよ迫ってきたのだなと思ったものだ。
真相が見えてくるのは7月に入ってから。先輩の知り合いである学校関係者の話で、24日や28日などふらついていた日程が結局は26日だと正式に分かった。また老校区は通らず、さらに中山路も抜きになったと知る。そのころ中山路の工事が何となく打ち切りのようになっていると、あとで気づく。もったいない。話によれば、コースは河大新校区が起点となると言う。このときはまだ市民が自由に見れるものと考えていたので、よし新校区で見てやろうと思っていた。それにしても、せっかく开封を通るのに龙亭公园や相国寺などの名勝、市のメインストリート中山路をも抜きにして、できたばかりの新校区でやったところで何の意味があるのだろう、と議論になったものだ。
また开封出身の学生によって、聖火リレーは政府から選ばれた市民と学生、それに省内から集められたお偉方やエキストラで催され、一般市民は見ることができないのだと知らされる。河南大学、开封大学両校で2000人ほど選ばれた学生が各々練習しているのを見かけた。また、この土壇場になって商丘がコースからはずされ、开封が河南のトップを務めることになったそうである。新校区をぐるぐる回った後、僅かに外環路を南進し、金明广场で左折、東進1kmの芸術センターでゴール。なんとも虚しい最終決定されたリレーコース。一般市民のチャンスは、25日河南大学の理系学生のつてを頼って新校区に忍び込み、翌朝まで待って校舎から遠望する。あるいは5つ星高層ホテルに一泊して部屋から遠望する。到底できっこない。ここまで参加制限にガードを固める必要があるのだろうか。きっと国家の一大イベントだから、地方の河南で何かことを起こしては、という役人の不安があるのだろう。そのビクビク感は、26日に近づくにつれてジリジリと我々に迫ってくることになる。24日という日付は、开封のお偉方にとって超重要な節目の日であるようだった。
その不安を掻き立てたものが何だったのか、愚かしくも私は帰国するまで知らなかった。22日の昆明市バス爆破事件である。24日、先輩は護送されるようにして开封を離れ上海へ。开封大学はリレーゴール地点の斜め向かいで、進入規制区域内にあたる。おそらく外国人のテロとは言わぬが、危険行為を恐れたのではないかとされる。
一人残された私は25日、気を奮い立たせて新校区に向かう。その前に、午前中ネットカフェにいるときに南門付近が騒がしかった。朝飯を売る屋台でも、聖火が南門を通るという噂は消えていなかった。おそらく聖火の護送車両が通ったのじゃないかな。市民の最後の希望だよね。私は確認してないけど、どこかを通らなけりゃ市内には入れない。だから推測で。
とにかく午後、新校区へ行った。一番いいのは33路の市バスで行くこと。乗ったまま何のチェックもなく校区内に入れる。が、多分この日に限って本数が少ない。そんで諦めて別の線を乗りつないで西門へ着いた。辺りは全部フェンスで囲ってあって、通行車両も制限されている。フェンスの内側には区割りがされていて、金明区、顺河回族区などと書かれた札がある。なるほど、こうして選ばれた市民が座を占めるのだな。門前にはかなり厳しそうな警備がなされていて、学生でもなければ簡単に弾かれそうな感じだ。時折警察、軍、報道、そして五輪関係車両が優先的に高速で通り抜けていく。正面に見える校舎にはコカコーラなどスポンサーの大きな横断幕がかけられ、学校とは思えない変貌ぶりである。結局無用な人は入ることはできない。明日、どこまで現場に接近できるかが勝負だと思った。

26日当日。8時からリレースタートなのは知っていた。物凄い数の人民が南門前を西へ流れていく。勿論彼らの多くは、会場へ近づくこともできなくて徒労に終わるなど知りもしない。
私は24日に走行ルートが改正となった10路でまず鼓楼に行く。ここもやはり、見れると思い込んだ人々が、金明广场に向かう(はずの)13路や11路などにすし詰めで乗車している。とくに13路は激しかった。私は少し空いてる感じの11路に乗り込む。ところが、宋都御街の入口、新街口より13路バスと三輪タクシー以外の車両は西へ進めない。交通規制は既にここから始まっていたのだ。我々はやむなく中山路に左折したところで一斉下車。三輪を拾えるものは拾い、ほかは西へひたすら歩く。奇妙なことに、逆行する人民も少なくない。見れないと分かった者たちが諦めてくるのだろうか。次の関門が大梁门。くぐることはできるが、その次の交差点より先、すべての一般車両が通行禁止となる。ここにて最初の人民の壁を見た。武装警察?が柵を背にして立ちふさがり、その前に大きな人だかりができている。とにかく人を掻き分け、一番前に出てみる。が、柵の向こうにも一般人がいるぞ。どうやって行ったんだ? そうか、脇道を使えば回りこめるんだ。ということで、この関門はクリア。
内側に入ったところで、真っ赤なTシャツを着込み巨大な五星红旗を振りかざした軍団に出会った。聖火に近づくことのできない人民を勇気付けるべく、中国加油!を叫んでいる。大きな風船状のマスコットも連れている。あっという間に、内外からカメラの的になった(私も撮ったつもりなんだけどもデータが残ってないよ...)。それから、歩道上で街頭テレビに人が群がって、セレモニー実況に釘付けになっていた。目と鼻の先で起きていることなのに、それをテレビでしか見ることができない。この雰囲気も結構おもしろかった。
西郊乡到達。再び軍と警察の壁出現。ここまで来ると裏道もない。まるでそのことが事前に分かっていたかのような、地理的な巧妙さである。まだゴール地点までは1kmほどある。これでは見えない。一度南へ回避し、開封大学の西南角に向かう。これは位置的には芸術センターの真南500~600mだが、これまた巧妙に道路の真ん中が工事中になっている。そして、先2箇所と同様の壁。見通せない。最後に、さらに西進し金明东街へ。コースリレーがちょうど終わったらしく、解散した「選ばれた市民」が戻ってくるところだった。終わってしまった。
晋安路で、余韻というか雰囲気を楽しむ人々に遭遇。五輪のマスコットキャラクターを施したオープンカーに人が群がっている。全く警備のいないところは個人所有らしい。私も入り混じって撮ってみる(これは撮れたみたいだ)。また、黄河大街との交差点では、変なおっさんが大きな中国国旗を振り回しながら「开封加油!」と叫んでいる。普段なら即行補導だろうが、今日は無礼講らしい。お祭りで神事を知らずに夜店を楽しむ日本人に似てるなと思う。

半年以上も噂に期待させられ、当日が近づくにつれて知人から得られる二転三転する情報に翻弄され、カメラ片手に現場へ向かうも足労となる結末となった。悔しさもあるし、納得させられるところもある。
国が何としても守らねばならない北京オリンピック開催の成功。そのために聖火を厳選された一部の国民にしか間近に見せないという犠牲を払った。大半の人民は蚊帳の外に排されたかに見える。しかし、火は熱を発し、目に見えない物質を放射する。「選ばれた市民」の壁も武警の垣根も越えて、リレーの走る街々に拡散してゆく。人々はそれを享受して彼らなりのお祭り騒ぎをする。こう考えると、人民も国のメンツの前にただ服従しているのではない。寧ろ国のメンツを盛り上げるために彼らなりの工夫をしているように思える。