南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

ウイグル自治区で手製爆弾テロ

昆明の市バス爆破テロに続いて、今度は拠点とも言える新疆でしかも警察官を狙った。昆明の事件についても犯行を認める声明を出している。おそらくチベット暴動の真相が公表されないのは、同一犯なのじゃなかろうか。全部ぜんぶ一連のテロなのだと。
記事を見て即刻懸念したのは北京五輪への心配ではない。あぁまた少数民族への偏見が蓄積される、であった。例のラサ暴動が起きた直後、ラオシーのチベットウイグルに対する言動が微妙に変わった。その方面への旅行をあまり勧めなくなったばかりか、内陸とはいえ少しずつ発展してきているのに少数の貧民が暴動や犯罪を起こす、というような発言をするようになった。ラオシーの言動は即ち党や国家の解釈に近い。その文明ある人民の国家に対する責任感、国家に属する、党に属することの責務というのは私は大変評価するけれども、ときに民族的感情が高まって誤った方向へ傾ぐ危うさもある。それがイラクなど国外へ向けられるのも問題だが、多民族国家では同じ人民に対しても矛先を向けてしまう。現段階ではそこら辺の操作は党にはできないらしい。中華民族と主張するように、何千年の歴史の中でいまの中国国土を踏んできた民族全てを近代的一国に包括するのなら、党は絶対であっても漢民族は絶対ではないという辺りを早急に確定せねばならない。これは近現代の政策における過ちであったか何だか知らないが、「ひとつの中国」であるがためには避けがたいんじゃないかと。
ラサ事件以降たまに呟くようになったが、今どき民族自決とか単民族国家というのは時代遅れじゃないのか。ウイグルにせよ、チベットにせよ、いま独立したところでその経済力が国家を運営していけるのか。無論、大中国の中にあっても、見せかけの経済成長の恩恵を十分に受けられているとは思えない。それは承知している。だからといって分離したところで、いま資源も技術力も豊富とはいえない地域が民族主義だけで自立を試みていけるものだろうか。
過激な犯行者は独立を謳うが、不満を持つ人民を含めて本音は違うのではなかろうか。届いてこない経済発展でもない。おそらくは何がしか存在する人権弾圧にその源がある気がする。汚点を隠すことが愛国ではないのだとしたら、この発言は決して大中国に抗うものではない。やはりこの広大な国土と自由奔放な人民に対して「政」を行っていくのは容易ではない。目に見えるもの、見えないもの、多様な手段で人民をまとめる上で行過ぎた政策もあろう。弾圧に、改革開放以前の政治闘争を含める論者もあるそうだ。情報統制は厳しいがそれでもインターネットの普及した現在、如何なる形でも自らの置かれた環境を客観的に知る機会がある。情報化社会では避けられない、汚点や歪みの暴露。党や政治家にはまだまだその認識が甘い。向こうにいるときでも、その甘さを感じさせる出来事が屡あった。
本音を言わせれば熱烈に独立したいわけでもない。が、今の体制では自分たちは国家の中で平等ではない。そして国際的視野から見て、これは時勢に合わない。だから過激な行動を取って少しでも注目を浴びた上で、根源を読み取ってほしいのではなかろうか。しかしながら、弾圧問題のほうに目が向いているのは内外ともにあまり多いとはいえない。寧ろ外国人を中心に、中国の分裂崩壊を願っている向きがある。いうとおりに独立させればいいじゃないかと。共産党一党政権からして時勢に合わないのだと。そういう問題じゃないんだなぁ。
公に抗うというのは、しっかりと真っ赤な教育を受けてきた者にとって大変難しい。抗っただけで出世ロードが途絶えてしまう。本人にとっては表現を変えた諫言であっても、国家にとっては反逆者にしか見えないのだ。このあたりは本当にもどかしい。盲点というか勿体無い。
また、仮に政府がその汚点を自覚していて、マトモな政策を練っているにしても、それは汚点に対する検討段階であって決して人民には報道されない。だから結局漢民族を中心とする人民は、少数民族への偏見を募らせていく。それが政府の意思とみなして憚らない。人民の中で続く悪循環である。
どんなに文明的になっても、この巨大な中華を維持していく以上、皇帝の代理人である共産党は必須であり、人民も教育を経て党を信じるシステムが出来上がっている。けれども、その中身は不完全で人民の間に歪みをもち、国際社会が納得のゆけるものではない。その事実を知り始めた人々が何らかの行動に出たとき、システムや国家が崩れなければならないのか。それとも諫言に読み直され、修正が加えられていくのか。五輪を開催する国家としての、この局面の柔軟性が欲しいところ。