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南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

日中歴史共同研究報告

南京大虐殺については、かつて指導教授から「非戦闘員」について国際法をもっと勉強しろ、と言われたのを思い出す。
さておき、今は何百万の人口を擁する南京も、日本軍侵攻当時に戦闘員、非戦闘員あわせて20万もいたかどうか。あれだ、南京が戦闘の最前線で、便衣兵のメッカになっていたというなら、限りなく近づくかもしれない。ただしこれは、憂国精神が庶民間に浸透して、各地で便衣兵決起が盛んであったことを前提とする。『ひげよ、さらば』の猫達みたいな、纏まることに無関心で、自由奔放に生きる*1中国人民に、そんな結束力があったかどうか。
それから、これは数の問題じゃなくて、どういう人間と戦っていたかという問題。便衣兵というのはゲリラで、正規軍ではない。一般市民の格好しているのが、いきなり襲ってくるかもしれない恐怖。民族浄化みたいなものでなくて、殺さねば仕方ない。戦争というのはそういうもんだと。だから東京大空襲や原爆投下で犠牲となった市民も、彼らの育てた若者が特攻機に乗って空母に体当たりしてくる恐怖を目の当たりにした米兵によってやむを得ず戦闘員と見なされたと。教授に伝えたかったのは、こんなことだけど、全く学術的じゃないよな。
具体的な数値はともかく、中国側は統率された軍隊よりも民衆の自発的な抗日戦闘が功を奏して、最終的に勝利できた、と主張するならば、ゲリラ掃討の為のやむを得ない戦闘を「虐殺」と大仰に言い立てるべきではない。むしろ「虐殺」となるお膳立てをし、それを良いように史観に取り込んだのはそっちだろと。なんだか学生時代に批判していた自虐史観に接近してきたようなので切り上げ。侵略地への謝罪意識だけでなく、連合軍からの被害意識をもつこともいけない。もっとポジティブに歴史を捉えないと。要するに、我々は負けたのではないと考えることだな。
向こうに居るときは、国家を負った歴史解釈というものがある面非常に評価できて、珍重に思えたものだ。それが日本から見ると憐れに思える。歴史の必然性に背を向け、自国の立場に合うよう解釈を作り上げる。少なくとも日中間で協調した見解をつくる上では、非常に無意味。共同研究ということを踏まえ、国の主張を遠慮した日本側の方がまだ理解できる。歴史教育においては、個々の国によって認知と解釈の方針が異なるし、それで構わない。が、国家間で認識を共有する場合には、仮に第三国が見ても頷けるものでなくては。とりあえず加害・被害的主張を議論の場に持ち込んでくれるな。そして、国境を越えてまで、お国の歴史教育を講釈してくれるな。まず、そこが重要。

*1:今でも