南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

丞相は「施主」なのに、皇帝は「皇上」

ある中国のテレビドラマ(DVD)を視ていて気づいた。仏の前で人はすべて平等であるなら、俗人は等しく施主たるべきじゃないかと。仏教を国教とした朝代でもなければ、皇帝が仏門に入っている証しはない。それでも呼称に差がつくのはどういうことか。
これは、たとい個々人が如何なる思想信仰をもっていても、皇帝は「万人之上」なる存在であり、その一信仰の下に均されることはない、ということなのだろう。この皇帝的権威を引き継ぐ中国共産党も例外でなく、党あっての信仰であり仏すら党を超えることはできない。そんなメッセージを暗示しているように思える。
畏敬の心意は絶やさず、それで尚自分の信念に基づいて接する。帝は統治の司であって人心の支配者ではないのだから不必要に屈することはない。これは必ずしも反体制行為や独立を意味しない。もっと大陸的におおらかにやろうじゃないか。皇帝が施主と呼ばれても、統一の象徴として君臨し人民に愛慕われ且つ心の何処かで尊ばれるならば、自ずと分裂崩壊は免れるだろう。
という感じで上海世博開会の祝辞としよう。