南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

幾年も、幾十年も、

水や、絵の具や、せっけん水や、牛乳や、鼻汁や、涙なんかが流れても、底のざらつきはほとんど変わってない。っていうか、花崗岩だか何だか知らんが石肌剥き出しよりステンレスとかもう少し安全性の高い素材に替えたらどうかとも思うのだけど、別に変える必要もないところは大切に残していくという方針も否定はできない。

人の性格も似たようなものであって、俺のひねくれて捻じ曲がった素性もやはり変わらない。それは酒を飲んでいようとしらふであろうと同じであり、飲んでるときぐらい素直になれと言われたって、素直であること即ちひねくれている状態なのだから素直にひねくれてやっているのに理解してもらえない。そんな奴が真っ直ぐに本音を語るわけがないし、今の自分がどんなに過去と異なっていようと、過去の人間と会うときは過去の自分らしいイメージを振舞っていなければならない。たぶん俺はそうやってひねくれてめんどくさい奴だと思われていけば、最終的には拒絶されるものだと思っている。ひねくれているのだから内心は誘われることを喜んでいるのは確かかもしれないが、自分の性格によって本当に拒絶されたとしてもその矛盾がもたらす葛藤を自力で処理できる自信がある。だからどちらに転んでも構わないから故意にサイコロを振って相手の出方を探ってみるのだ。どちらが成功でもどちらが失敗でもない。どちらにも歓喜と煩悩が発生する。そんな煩雑な心境だからひねくれていなければならない、因果逆転。ここは他力本願で拒絶してもらったほうがスッキリする筈だが、毎回有耶無耶に出ていって平和たるべき同窓会を荒らして帰るのもいい加減心痛なので、次回は真剣に歪みきって断るか中国に亡命しようと思っている。