南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

许昌第三次(许昌学院)

これは、午前中会いに行った河南大学の老师から留学中お世話になったK先輩が许昌にいることを知らされ、挨拶だけでも、と電話したところ、「ぜひお越しください」と言われて急遽訪問を決断したものである。平原編を終えて一晩寝たっきりで疲れが残るものの、东京大夜市が開かず酒を飲めないのと、折角2年半ぶりに帰ってきた开封で朋友再会が思わしくないのとで些か落ち込んでいたので、意外な展開だったがうまく時間を調整することにした。既に明日17時开封発天津行きの列車の切符は確保しているし、日中は郑州地铁乗車と決まっている。たとえ旧知が激減していても开封は故郷であり、やはり締めは开封から発ちたかった。よって、许昌滞在時間は今夕に限られ、明日早朝には郑州へ移動したい。荷物は宿に置いていこうと思ったが、万一のことも想定して退房した。吉祥旅社の阿姨は前払いした一日分の代金を返してくれた*1ばかりか、许昌へ向かう私に色々とアドバイスしてくれた。

许昌へ

许昌行くなら西站が便利だとの助言を無視し、慣れた足は3路で中心站へ。中心站からの许昌行きは相変わらずイヴェコだが、運賃は26元から31元に上昇していた。全路程省道というあまり恵まれた道路事情ではないにせよ、もう少し大量輸送を検討しても良いのではないかと思う。昼食後に準備して出発すれば15時過ぎには着けるだろうとK先輩は言ったが、13時半頃宿を発ち14:20発のバスに乗った時点でかなり厳しいと思った。ところが、イヴェコは快調にすっ飛ばし懐かしき朱仙镇を驚異的な早さで通過した。が、そこには思わぬ落し穴が待ちうけていたのだ。尉氏の前後で道路の舗装改修工事が行われており、とりあえずアスファルトを剥がしたまんまの状態で保留された悪路が続いていたのである。とくに尉氏から许昌市境にかけての区間は、陥没だらけで細かな迂回を強いられるほど荒れていた。まるで昔の开封の魏都路や五福路みたいだ。当然往来する車両は減速を余儀なくされ、追い越しどころか対向車にも気を遣わねばならなくなる。尉氏で小休止したときはまだ望みもあったが、悪路を脱してみれば15時半どころではなかった。初めて许昌を訪れたときは洧川で渋滞に巻き込まれており、市境付近はどうもトラブルが多い。

6年ぶりの许昌市区

许昌第二次以来およそ6年1ヶ月ぶり*2の许昌。开封に先行してマクドナルドが営業していたり、きれいなフードコートをもつ超市があったりと、都市の発展度は優等生。一方で小さな屋台や安食堂が少なく、三国時代の魏の都だった面影も乏しい。それでも派手派手しい都会のイメージはなく落ち着いた街の記憶が大きい。そんな许昌も結構豹変していた。まず先輩の電話で驚いたのが、火车站から许昌学院东校区へ行く公交は2路と11路の2本あるが、そのうちの11路は二階建てバスだという。実際イヴェコで市中に入ってからその姿を見かけた。二階建てバスといえば西安公交で乗ったきりであり、もはや河南の中小都市で乗れる時代になったか。开封でも旅游专线に採用されているときき後日確認したものの、许昌ではそれが一般路線に用いられている。さすが许昌は一歩先を行くというか、変貌ぶりが凄かった。バスターミナルに対面する火车站の駅舎もどこかリニューアルしたように見えた。昔はもっと平屋っぽい鄙びた建物だった気がする。高铁は専用の许昌东站が設けられているので、別に许昌站を改築する必要はないのだが。他都市同様に交通量も増し、もともと広めな主要道路でも手狭な感じ。
得意の土地勘を呼び覚まさせる必要も余裕もない。11路は七一路を文峰广场方面へ1,2区歩いて乗ったほうが座れるときき、次のナントカ大酒店から乗った。車内は学生が多く、奥に座っても降りそこなうことはないと思った。先輩の教え子である上海の朋友とチャットして再会の喜びを爆発させているうちに许昌学院へ着く。ほとんど車窓は見ていない。

许昌学院

実は私の愛用している2007年版河南省地図でも既に新校区は記載されており、決して真新しいキャンパスでもない。だが、正門(南門)から待ち合わせ場所に指定された図書館を真正面に臨んだときは、郊外の土地をふんだんに使った余裕のある造りを感じさせた。まるで学園という語は学院と公園の合成造語であるかのように。とは少しも考えず、図書館でトイレをお借りし、広大な広場に設置された大型スクリーンでニュースなどを視聴する学生たちを眺めていた。彼らは私が留学していたころの学生像とは明らかに違い、豊かになっている。
先輩が急遽私が泊まることになった部屋を片付ける間、日本語学科の二年生と交流。思ったよりレベルは高く、もう日本のコンビニでアルバイトできるくらい上手い子もいた。逆に数日間中国にいる自分のほうが脳と舌が回らないくらい。毎週开封大学の日本語コーナーに通っていた頃に重なって懐かしい。ちょうど学期末の試験期間で準備もヤバイはずなのに、夕刻には男女7,8人が集まってくれた。男子のほうはかなりたどたどしいがノリでカバーしている。こっちも旅の疲れが飛んで元気になる。

酒宴

校外を西に少し行ったところに、レストランの店先がオープンカフェみたいに開いていて夜市の雰囲気を楽しめる。开封で慣れ親しんだ夜市と同じように表で幾つかの凉菜を選び、饭馆の中で主菜を所望する。凉菜は留学時代流に指差しで選び、主菜は今回まだ食べてなかったからと鱼香肉丝、以下に記す焖子のほかはお任せした。まずはビールで乾杯。日本人は开封式にラッパ飲みし、学生たちはプラスチックのコップに注いで飲む。最近の学生はあまり酒を飲まなくなったという。というか、飲んでもあんまりハジけなくなった。男子でも、強いお酒を爆飲みしたりルーレットゲームしたりといった豪快さがなくなった。たぶん生活環境が恵まれ娯楽も豊かになってきて、酒盛りが発散の主役を占めなくなったんじゃないかと述べたら、お互い寂しくなった。
この晩餐で特筆すべきは、禹州焖子と白酒である。焖子とはサツマイモの澱粉を押し固めたもので、凉粉の固形版ともいえる。许昌市西部禹州の郷土名物らしい。2008年に禹州を訪れた際「火烧夹凉粉」というのを食べているので、凉粉は禹州の一大特産ともいえる。浚县子馍に続いてここでも名物を食べる機会があって、今回はツイていると思う。

外見は板コンニャク*3のようだけれど、舌触りは意外にサラッとしてやや弾力はある。むかし北海道旅行で食べたカボチャ団子に似ている。味はとくになく、一緒に炒めた肉や野菜とともに味わう。
普段日本でも中国でも料理を撮ることは滅多にないが、今夜は迫り来る電池切れを気にしながら頑張ってスマホに収めた。上の写真で焖子の後方に並ぶ三皿が凉菜。豆腐ものとキュウリ系二品。とくに中央の调黄瓜は大好物で、宴会中も憚らず自分のほうに皿を寄せてもらった。
 鱼香肉丝。
 烤羊肉。これなくして酒宴は成り立たない。久しぶりに食べた本場孜然の味に感激。一串も年々高くなっているらしい。

解放軍のような制服の男たちが10数人、隊列乱さずさりげなく巡回していく。城管(城市管理行政执法局)である。以前は車で何気なく素通りするのを河大西门などでも見かけたが、近年は無許可営業の屋台などを厳しく取り締まっているようである。先日东京大夜市が開いていなかったのもこのせいで、城管の摘発を恐れて予め決めた日に営業しているそうだ。元来许昌では屋台が少なく学生たちも学食でとりあえず満足しているみたいだし、全国的にこうした都市管理傾向が強まって屋外で飲食を楽しむ習慣が衰退していくのではないかと寂しく思う。

そして、ビール2,3本で緊張感の薄れたところへ、白酒の時間です。1本目は、
 品牌に馴染みがないので燕京啤酒とのツーショットにした。
昔ほど異臭が気にならないのは酔ってるせいかなぁ。
二本目は有名な杜康です。河南は洛阳の銘酒。洛阳出身の子に杜康の歴史と逸話を日本語で語ってもらい、中国史に詳しい先輩が評価していた。

学生たちは宴席で日本語を積極的に話したら成績にゲタ履かせるなどと言われて、最初は懸命に質問したりしてきたが、いつのまにか饒舌になった私が中国語に切り替わったりして熱く語りかけていた。そして、饭馆内のトイレに行ったことと暗い夜道をみんなで歩いて戻ってきたことは断片的に覚えているが、会計などは記憶がない。気がつくと、先輩の教員宿舎のトイレに横たわって呻いていた。吐き気凌ぎに中国での拠り所を失ったことなどを愚痴った。すっかり潰れてきちんと寝室で休むことなく夜が明けた。でも旧知に会え、安心できる場所で中国酒に酔えたことは幸運だし感謝している。あのまま开封で孤独を噛みしめながら予定通りの行程を終えていたなら、许昌再訪と新たな出会いに満たされることはなかっただろう。


朝もやに包まれる许昌学院正門。

郑州地铁(郑州2014年号)へつづく)

(map:许昌学院新校区)

*1:かわりに押金10元は受け取った記憶がない

*2:许昌地级市入りは鄢陵以来およそ5年8ヶ月ぶり

*3:芋の成分を用いる点では蒟蒻と焖子は共通している。