南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

周口-驻马店編2:驻马店上蔡(Shangcai)蔡国故城

エイズ村として一部に知られる文楼村へ最も接近するこの日は、ある意味で予感通り一番手ごわい日となった。当初の計画では午前上蔡・午後周口关帝庙だったが、思わぬ難航から上蔡のみの一日となる。
周口-驻马店(Zhumadian)編1:驻马店汝南(Runan)(南海禅寺,天中山)よりつづく)

上蔡县へ

まだ登記室で寝ている姐さんを起こしてチェックアウト。昨日と同じ鸡蛋灌饼を食べて汽车站に入ると、县クラスにしては珍しく切符売り場が稼働している。でも驻马店行きなど比較的近距離なのは站前で集客しているし、同じ手を使えないものか。と構内で暫し思案し、仕切り直しに外へ出た。すると裏手の城乡汽车站場内奥に、上蔡行きのバスが2台覗いているではないか。汝南汽车站と城乡汽车站は内部が繋がっているようで、実は全く別のターミナルだったのである。道理で南海大道側にいたのでは上蔡行きらしい利用客に遭遇しなかったわけだ。乡镇バスの間を縫いながらヒョコヒョコ入っていって、発車間際のバスに乗り込む。運賃10元。幼子を成人料金で払いたくない母親と車掌が揉めている。最後部席できついシートベルトを締めながら、農民たちに脇を挟まれてバスに揺られる体験は他ではできない。
小一時間ほどで上蔡へ。到着は西站でなく东站だという。南西から入城し、蔡明园の前を通った。

史跡を探して

蔡(国)は周代(紀元前11世紀〜紀元前447年)、現在の上蔡县一帯を領土とした侯国。首都ははじめ上蔡にあったが、のちに新蔡へ遷された。中国でいう古城または故城とは、城郭や城下町ではなく城壁跡のことである。下調べでは县城の南西部に多く残っているとの情報であった。従ってまずは、町の南端を目指してみる。目安は一二時間、昼過ぎには汽车站へ戻ってくる算段であった。

恒顺广场(重阳大道・白云观大道交差点)

故城の傍には护城河が流れているとのことで、地図上にそれらしい小川の載っている辺りまで歩いてみた。しかし、史跡らしい痕跡はない。今日は北風がやや強く、向かい風では砂埃を吹き付けられて辛い。後で調べると文楼村はこの方面にあり、風水が私を追い返してくれたのらしい。
考え直して、今度は蔡明园方向へ進む。この重阳大道は、北側はホテルなどの中小ビルが建ち並ぶのに、南面はマイクロカーの販売店と食べ物屋の簡素な街並みの対照的な、明らかに县城の辺境を思わせる通りだ。町の南西角に広大な土地を割いて造られた蔡明园は、史跡群やテーマパークというより市民公園の様相で、巨大な南門は「亚洲第一门」と称されるらしい。園内に故城が含まれる気配はなく、おまけスポットに加える気もないので入園しない。その公園に沿った蔡明路には、スパやKTVなどを備えた高級ホテルがズラリと建ち並び、こんな農村県にとっては別世界かと思うほど豪勢な欧風建築に圧倒された。外国人旅行者が敢えて来るところでもなし、政府要人や高級官僚を接待する歓楽街なのだろうか。そして、县政府前へ出た。
ここまで検索しては歩き、歩いてはまた検索を繰り返しながら手探りで進んできたが、そろそろリミットも迫る。ここで漸く某ブログ等にて「古城遗址公园というのが秦相路に面し、蔡侯路の南側にある」ことを突き止めた。地図で確認すると30分はかかる距離だが、ここまでの苦労を未完で済ませるわけにはゆかない。蔡明园の西辺を走るのが秦相路。それをずんずん北へ歩いてゆくと、とうとう見つけた故城遗址!!

蔡国故城遗址公园
この土手のようになった部分が城壁跡だろうか。

水はほとんど枯れているが、たしかに护城河の形跡がある。石碑も説明書きもなく、見た目はごく普通の公園である。残念ながら、これ以上探索したり休息する余裕はほとんどなかった。公園を離れ、蔡侯路を東進するにつれて土手はずっと高くなる。

木々の間から垣間見える土手部分。

上蔡脱出

史跡探しよりも手こずったのが、上蔡から周口への移動であった。既に歩き疲れており、地図を読み誤り蔡侯路沿道に汽车站を発見して楽観。これは南北の位置関係がズレた西站で、当然見つかるはずもない。見当付けて曲がった道では、ちょうど昼休みに下校する小学生の群れと鉢合わせし、押し返された。空腹と重い足を引きずりながら白云观大道へ。

実はこの左手奥に周口行きバス乗り場(仮設)が写っているのだが、この時は知る由もない。

そうして、县城の外周をほぼ辿る形で戻ってきた汽车站(东站)。ところが、S.H.EのElla似の售票员は护照を見て戸惑いつつも普通語で、ここに周口行きのバスはない、と答える。じゃぁどこかと聞けば、これも躊躇いがちに「北关の方」と言う。そんな地元の地名言われても分からないが、北の端ならさっき押し返されたところかな、と思った。
棒になった脚を鞭打って、今度は西站にアタック。これは中心部にある。昨日の汝南とは打って変わり、逛街には程遠い街歩きだ。しかし、西站でも「ここに周口の車はない」となしのつぶて。困憊し、藁にもすがる思いで站前に屯する三輪タクシーのおばちゃんに「周口行きたいんだけど」と言えば、呆れ顔で荷台に載せられた。電動モーター特有の低速で揺られながら、早めにこの手を使えばよかったと悔やむ。蔡侯路をガンガン走って着いたところはといえば、さっきの白像そびえるロータリー広場の北側。おばちゃんは、スーツケースなどを携えた数人の固まりを指さし、「見えるでしょ、あそこだよ」と言って15元要求した。売店と「周口」の看板のみの場所だけに見落としがちとはいえ、ホントによく歩かされたものだ。
さて、このバスがまた修羅場だった。15時半ごろやってきたバスは、驻马店発の周口行きでほぼ満席。乗り場にいる仕切り屋の姐さんが運転手と連絡し合い、ここへ寄り道させているのだ。上蔡降車客と空席、そして上蔡乗車人数が食い違い、乗降口で20元払って上がるも座席がない。諦めて降りる者もあったが私は食い下がり、なんと乗降口に木板一枚咬ませた補助席?を宛がわれた。次の集落で何人か降りるから、そこまで我慢しろという。安全性も何もあったものではない。あの正面衝突寸前のチキンレースを、シートベルトなしで最前列の大スクリーンで見せられるのである。そして次の停車地では確かに3,4人ほど降り、これ幸いと奥へ進むも何故か満席で冷笑浮かべる奴もいる。嘘だろ。たぶん皆詰めて座ってたんだね。車掌も構わない風なので、こうなったら立っててやらぁ。そこから10分ほど通路で凌ぎ、次の镇で抜けた席にありつく。また、商水(Shangshui)の手前でこの先渋滞があるからと農道へ迂回し、対向車を脇道へ避けさせたり三輪車を路肩ギリギリまで攻めたりと横着無尽な運行だった。
てっきり新築されたばかりの周口火车站に隣接する客运总站へ終着と思い込んでいたが、火车站への乗客はかなり離れたところで降ろされたようだ。そして、市中心部の客运中心站へ到着。もう夕暮れである。

周口の夜

投宿にはまだ十分時間がある。今日のしわ寄せを調整し、明日効率よく動くための下見をしよう。朝一で訪れる关帝庙と、淮阳へのバスが発着するという荷花汽车站は、いずれも中州大道沿いにある。ハミ瓜を一串かじって気力挽回し、北へ歩き出す。大通りに合流する道筋の各所で、夜市が立ち始めている。これまで訪れた河南省の都市の中では、开封に次ぐぐらい夜市が盛んな印象を受けた。親近感が湧くと同時に、前回2014年で規制による衰退が危惧される开封を見ているだけに羨ましさを覚える。

七一路を華麗に彩る「中国结」を象った電飾街灯

周口スゲェ、と感心したけど、开封の大梁路にも設置されてた。
颍河を渡ると关帝庙エリア。観光開発された小奇麗なモールに夜市が開かれている。統一感ある仮設店舗がズラッと並ぶ。賑やかなのはここまでで、その先は街明かりの少ない寂しげな市道と化す。そして、左手に現れるはずの荷花汽车站は、閉鎖されていた! 移転したとの情報もあるが定かでなく、懸命に歩いてきて突きつけられる現実は過酷なものであった。失望感を抱えながら、トボトボ市中に戻る。关帝庙近くの兰州拉面で2夜連続の烩面。人生初めて、僅か2杯目にして牛骨スープ味の烩面を食い飽きた。今旅ではもう烩面を選ばないと誓った。
じつは、中心汽车站前や关帝庙までの道すがら、中州大道を南進する「周淮新能源公交」というバスを幾度も目撃している。進行方向からして、このバスの終点が即ち淮阳行きの発着点なのだが、いったいどこなのだろう。検索してみると、開通時の東郊までの情報しかなく市中延伸先は解明できない。中心汽车站からの直行バス利用も視野に入れつつ、何とかこの公交を捕まえたい一心であった。
中心汽车站周辺の安宿は、おもに五一路へ集中している。その辺をキープしながら中州大道・交通大道の交差点をうろついていると、案の定旅社の客引きが声かけてきた。路地を少し深く入り2階へ上がると部屋を見せられた。宿主のおばさんはパスポートを見てもさほど驚かず、名前と旅券番号の位置だけを尋ね、50元の宿賃を受け取ってさっさと登記しにいった。これは昨夜同様の公安行きか、ちょっとマシな宾馆にたらい回しされるか、何かあるだろう。何も起こらなかったら神だ、と思ったら、マジで女神様だった。おつりと旅券が返されて、とやかく聞かれることもなく「お休みなさい。」クタクタの身体が一番救われた瞬間だった。

周口-驻马店編3:周口关帝庙へつづく)

(map:蔡国故城遗址公园)