南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

女性自爆攻撃とイスラム教

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 イスラム教と言えば、この時期は巡礼の時です。最近の新聞上にメッカのカーバ神殿で祈りを捧げ、聖地に達することができた人々の喜びが映し出されていました。イスラム教は別の名を「回教」とも言いますが、これは神殿を5回廻ることから来ているようです。巡礼にやってくる恐ろしいほどの数の人々が一斉にあの神殿の周りを廻るのですから、国府宮の裸祭じゃないが、怪我人は出ないか、と心配になるものです。まぁ、この聖なる場所にたどり着いて息絶える人もいるそうですから、ここで死んでも本望かもしれませんが。しかしながら、聖なる場所でなくても死を選択する人は、そこで何を考えるのでしょうか。さらに相次ぐテロでは、人に危害を加えることになるのですが、そこまでして選ぶ死とは彼らに何をもたらすのでしょうか。≪パレスチナ自治区ガザで1月14日に起きたイスラエル兵に対するパレスチナ人女性による自爆攻撃について、パレスチナ人の間で賛否の議論が起こっている。イスラム過激派組織ハマスの指導者は「女性戦士による占領との戦い」と称賛した。しかし、女性には幼い子供がいたことで、母親が子供を残して自爆することがイスラムの教えなのかという疑問がでている。(アサヒ・コム)≫この場合は子持ちの女性ということで、イスラムの教義から考えてもジハードと呼べるか、という問題です。
 テロの背景という問題はこの際考えないとして、宗教的な観点から述べておきます。大学の宗教論で書いたレポートで、筆者は仏教とキリスト教の各々における境地というものをテーマに取り上げました。仏教における彼岸とは、信者の目指すものであり、境地であるわけですが、キリスト教の教義としてはそうしたモノは存在せず、ただ神の世界を現実の中で求めていくというものでした。それでも資料をもとに突き詰めていくと、キリスト教にも仏教に共通する「彼岸」のようなものが存在することがわかったのです。イスラム教も同じだと思います。彼女は聖なる場所でなくても、死を選ぶべき場所はここだと感じたのです。その時、その場所で、その行為をすることが、自分にとって自分が信仰してきた宗教における境地である、と彼女は信じたのです。この世でどんな議論が起ころうとも、来世で彼女は仏教で言えば悟りの境地に至ったのでしょう。結:(宗教的に)彼女は美しく輝いている。【2004/02/06/AM】