南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

反論してみる

Nanjai2004-06-25
 アブグレイブ収容所におけるイラク人虐待事件について、地域文明論の教授が「あれはアメリカ文化ではない」とおっしゃるので、反論してみる。
 下地になる話は、先月の半ばに「イラク人の死を『それがどうした』」稿で、述べている。一部にはもちろん、こういった状況になれば、誰だってやるだろう、のようなレベルの感覚もあるだろう。原爆投下のような悲劇をアメリカが実行したのも、沖縄戦での住民による集団自決や爆弾を積んで突っ込む特攻戦士らの、いわゆる庶民的階級の戦闘員化に恐怖心を感じ、市民無差別大量殺戮に踏み切った。同様なことは日本もやっているわけで、中国南京事件などは、現地のゲリラ戦に恐れをなした日本軍の怖気紛らわしとも言える。教授様は、このような人間的恐怖心による逃避行動の表れが、今回の虐待をなしているのだと言いたいのだろう。それも決して、皆無だとは言わない。しかし、分量的には精々20%程度だと思う。
 彼の先週までの講義では、「アメリカ建国と自由」について話されてきた。それを聴きながら、現在のアメリカを追っていると、様々なことが読めてくる。自由というのは、誰に与えられるものなのか。アメリカ独立を統率し、それに賛同した者達はみな、イギリスなどの既成観念(政治・経済・宗教)を離脱せんとする自由主義者だった。それでも植民地として手放そうとしないイギリスの圧力に対して、戦争を起こした。味方についたのは西欧大陸の諸国。そのときはインディアンも黒人奴隷もアイテムとして、独立派について参戦した。アメリカはこの時から、いわゆる「自由の国」として知られるようになった。が、インディアンはこの自由の国体制についてゆく気は毛頭なかったため、なぎ倒されていく。
 アメリカにおける自由は、その国民にのみ通じる。その国民という階級はすなわち、アメリカという土地と多民族社会と自由という神話を認め、信じたものだけに与えられる権利である。自由神話は、主体思想やコーランと同じだ。独立宣言は、毛沢東語録と同じである。その神話が国内を越え、全世界で通用させる領域に達しつつある。イラクに民主主義政権をもたらすということは、コーランを自由神話に塗り替えんとする行為であり、従わぬなら暴力をも辞さない、というのがこのたびの虐待ではないか、と感じるのである。
結:反論のヒントをくれる講義を有難うございました。【2004/06/01/PM】