南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

「砂の器」の苦悩

Nanjai2004-06-25
 先稿の続き。この事件の記事を書くために、昼飯時に真剣に考えてみた。特にチャット関連の件。これは昨晩実践?し、その会話をもとに考えたことも含めて、コメントしておこうと思った。
 さて、再び断っておかねばならないが、私はIT歴が極めて短いので、偉そうにチャットなどを批判できる立場にないとは思う。しかし一々そんなことを言っていては、選挙権がないからとか成人でないから、政治に口出しするなと言うようなものである。稚拙を承知で申し上げるのが、このページの特徴だとして押し切る。
 チャットルームは非現実的世界だという方がいた。私は非現実を含むのであって、非現実そのものではないと考える。私なりには、相手を見て虚偽を語ることもあれば、真実をぶつけることもある。つまりインターネット上(チャットを含む)では、相手に自分のことを信じてもらおうと努力するのではなく、真実だろうが虚偽だろうが発信し、相手に判断させることを目的とするべきだと考える。本音で語り合える仲があってもいいし、幻想の世界に浸る会話があって良い。だから、非現実を含むのだと始めに申し上げた。
 だが、世には過剰反応を起こす方がいる。ある発信に対し非常に真実感を覚えたり、恐怖を覚えたりする。それは別に悪いことではないし、寧ろ流動的過ぎるこの環境が生み出す人間性だと思う。自分に不利なことを過度に信じ、その身を守ろうとする行動の最先端は、やはり情報源の抹消だ。最近ドラマ化された「砂の器」の主人公も、ライ病の父親を持つことを詐称してきたこれまでの人生を、一人の元巡査に暴露されることを恐れた気持ちが殺意に変わる。
「恐怖」と「保身」。その恐怖の源は、やはりどこまでを真実としてよいか分からない、ただ流れていく会話に手応えがほしい、流動空間の認知と抵抗とでも言うのだろうか?
結:心理は未知、未知は恐怖・疑心、そして恐怖は実体を求める。【2004/06/03/PM】