南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

アマの戯言

Nanjai2004-06-25
 《子どもがインターネットを使うとき、保護者はどうかかわっているのか。日本PTA全国協議会が保護者を対象にアンケートをしたところ、ほぼ半数が「何もせず、子どもに自由に使わせている」と回答した。4人に1人が、どのようなことに使ったか、子どもはほとんどか全く話さないと答えた。(朝日コム)》これだけでは物足りない。記事全部書き写したい。でも要約も文章作成訓練のうち。というか、読者が自分で記事を探すのも、大事なインターネット利用の一環だと思う。(身勝手)
 であるから記事自体は、御自身で読んで頂くことにして、とにかく保護者は保護者なる者としての任務を遂行すべきである。未成年は保護者の監督下に置かれるものであって、親の要請に基づく恐喝や暴走などの犯罪行為は除いて、ある程度の強制があってしかるべきである。子の心身に悪影響を及ぼす恐れのある気体・液体・固体は、手の届かぬよう注意すべし。その行為を怠る親急増すれば、学校教育にて徹底すべし。保護者が学校教育に圧力をかけ、保護監督教育を緩めるようならば、法の力を以ってすべし。さあっても、直らずなれば、天皇陛下の勅旨を仰ぐべし。
 やや危険で概念的な内容に変貌したので、インターネットに限って戯言化してみる。ともかくも、情報あふれるこの環境で適応化するには、数多くの経験が必要である。保護者の恐れるのは、害悪を受けた後の左右の方向性である。刺激を刺激として受け止めるか、あらゆるものを流動的に受け入れるか。いずれに向いても、その人生を悪の方向に位置付けるものではない。しかし保護者の場合は、前者となることをやや恐れている感がある。現実界での体験に変えたいとか、責任感を失った行動に出るようなものである。流動的に見流して、現実社会との関係を断ち切ってしまうほうが、社会に下手に影響力を及ぼすより安全と考えるからだろうか。要は子のためでなく、親の保身でないか。
 思春期というのは、自己確立に専念する時期だ。刺激無くば、自分を見つめることは出来ない。ある情報に反応するのが自然であるにもかかわらず、保護監督上の形式的観念から、あるいは保護者の保身から、害悪を取り除く気になって、子を人間たるものから遠ざけることになるのは、甚だ不合理でないか。
結:親の恐怖に任せず、子の恐怖に任せよ?(前半と後半で主張が異なった)【2004/06/17/PM】