南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

連載!!「初夏の薫り」(チャット)

Nanjai2004-09-07
 先回は連載継続予想などから別の話に持ち込んだようだが、要するに筆者は不特定多数の人間が出会うチャットに嵌まり込むこととなる。しかもそこは、適齢でないというか、筆者より幼い人々が多かった。筆者はしだいに、はじめの意識にはなかったものを感じ取っていく。それはいわゆるネット常習者に見られる無常観を実行しながら、一方で自己確立のできない不安定さを、会話の各所に見せていた。もっともそれに気づき、新たな施策を講じていくにはまだ筆者自身が幼かったが。
 年代的に言えば、中学生から高校生。筆者にしてみれば、身近な過去であり、おぼろげな経験をなぞる影法師でもあった。歳、居住地域を名乗る。これが常識であったが、皆素直であった。信じていた。決して筆者のように工作をしなかった。ここに、ネット社会の持つ陰があるとは思えなかった。そう、筆者は初期には彼らと同じ幼い時間を過ごしていた。何も考えずに、ただ不安を解消し、タバコや酒のように浴びるようにして、話し込んだ。
 一方で、去るもの追わずの簡易さは、筆者も舌を巻いた。一見友好なようで、人間観というものが無いような行為もしばし。筆者のような、倒れても起き上がる人間ならばまだしも。というよりは、それを現実に持ち込んだときの不安というものを感じさせる。
 ところで、筆者は2人で話すというのも、また好きである。自然に彼ら地震の闇を見つけることができるからであった。むろん、それを相手に対して口にすることはなかった。それは見ぬ顔に対しての礼儀であり、また両者が不快感なく、夜を過ごせるための配慮でもある。彼らはそれぞれ昼間の時間を、何らかの苦労と幸福を伴って生きている。個人であることの認識は、不特定多数の人々が寄り集まるチャットにおける基本原則なのだろう。
 これが、5月末までのチャット人生である。あの事件をきっかけに、ここにおける幼さは静かに幕を閉じ、観察と考察と研究の対象物へと、チャットは移行を始める。あの事件なくば、今の筆者の論はない。それは6月2日、長崎で起こることとなる。
結:一抹の不安を抱えながら飛び込んだチャットで見たものは、別の不信感と問題意識を密かに筆者の心に植え付け始めていたが、形となったのは6月以降であった。【2004/09/07/PM】