南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

連載!!「初夏の薫り」(自己不信)

Nanjai2004-10-18
 後に別稿でも書くつもりだが、このところ心身ともに不安定である。その弊害がまた自己を崩落させる。この異常生活を終焉させなければ、24単位を取得することが困難になるであろう。もはや1ヶ月、自分の弱さを以って、自分の存在を自分で抹消し、同時に相手との交渉を絶ってしまって、度重なる災厄に誘惑され、また自己の基礎をも蝕まれていく。
 月曜といえば、キリスト教概論の講義がある。日常生活的にも哲学的にも教えられるところが多々あるのだが、もはやまともに講義を聴く精神力は、筆者には残されていない。わずかに聞き取る非聖書的な1文を集中的に考え、講義を逸脱し、またレポートを提出すべくもなく退出する。助教授閣下、筆者は寝ているのではなく、講義を聞く意欲がないのでもなく、神よりも先に自己を信じたいという願望が先制し、おっしゃる言葉一つ一つがあまりにも現実味を帯びてしまうのであります、とどうして伝えられようか。
 筆者は、人という連中やその心に救いを求めずに生きてきた、あるいはそれを将来も望んでいた人間である。それには、自己を信じ、公と私を明確に作り、ともすれば光と影の両世界をもってでも生きることを基本信念としてきた。そこには人々の接触もなく、かといって物質的な執着もなく、愛情も悲壮もまともに存在し得ない。個のみが立っていれば、何事も決められるものである、としてきた。
 その一方で、筆者も人であるから、愛を求めていたのかもしれない。それは、先の講義で言うところの「神秘」なるものであろう。心理学はどうか知らないが、科学的に立証されるものではない。初夏を含む3ヶ月で、筆者における心的環境と価値観は大きく変動し、以前の個に戻ることが不可能となった。
 出会いは、決して無ではない。また、過去を思う限り、無にしてはならない。このことが気兼ねとなって、なんとかこの不透明な心理を価値ある自己の糧に変えんとする試みに、今直面している。それこそがまた、出会い、そして裏切りに対する報いでもあると考えるのだ。
結:神の助けも必要かもしれないが、自己不振の脱出には理性が主役となるであろう。【2004/10/18/PM】