南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

連載!!「初夏の薫り」(キリスト教に救われて)

Nanjai2004-10-25
 自己不信を書いてから、ちょうど1週間になるのだろうか。キリスト教概論が巡ってきて気づく。99%を納得させても、最後の1%の悔いというか、人としての寂しさが、相手に声をかけてしまう。ごめんなさい。無視してください。
 そんな気持ちに終止符を打つべく、キリスト教概論を真剣に聞く。《人間はみな、傷物》《原罪(original sin)をもっている》《自分の傷を認めれば、他人の傷も認められる》。あぁ、自分がいつも伝えてきた言葉だ。《人を傷つけてしまうのは、自分が悪いから?それは違う。人はみな傷を持ってる。だから、傷つけてしまうことが当然。でも、自分でそうならないように努力していくのが人生。そのために神が我々を創った。神は人を救う為のものじゃない。人が自分を救う(傷をなくしていく)ために努力する力を与える存在。》自分の伝えてきた言葉、どんなに傷つけられても受け止めてきたことが、ここで何か認められ、報われた気がした。数々の寂しさ、葛藤、裏切り。自分の持つ限りの言葉で、気持ちを出し切った。しかし、今、自分は相手にどんな影響を与えただろう。自己満足と言われれば、諦めるほかはないのだろうか。手ごたえを求めるのは贅沢なのだろうか。その答えにも、講義はヒントをくれた。
 《人は、救いを求める自由がある。自分が変わりたい、と望まなければ何も変わらない。》《愛するということは、自分のものにすることではない。相手には自由があるから。相手も傷を持っている。それを除けるように、努力することが、愛情ではないか。でもその効果は、相手が決めること。》同感した。
 もちろん自分も傷ついていた。自分の存在を認めてはいたけれど、ある意味では自己中心的であった。今、他人と付き合うことで、何か変化を感じている。傷物と傷物が擦れあうことで、新しい丸みが生まれるのではないだろうか。だとすれば、決して自分の出会いと努力も無効ではないだろう。自分の価値観を押し付けたのではなく、擦れあってお互いに一歩成長したのではないだろうか。
 これはすべて過程なんだ。受け入れてくれたかは、相手の自由だろう。報われるのは、今ではない。そして絶対的でもない。しかし、何か自分が相手の過程になれたことに確信と誇りを持つのである。(完)
結:ありがとう、さようなら【2004/10/25/PM】