南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

憲法学読書レポート(『個人と国家−今なぜ立憲国家か』樋口陽一/著)、稿修正版

Nanjai2004-11-26
 小泉首相が01年8月に靖国神社を参拝したことをめぐり、首相と国を相手に慰謝料を求めた訴訟の判決が千葉地裁で言い渡された。「参拝は職務行為だった」として公式参拝と認定したが、憲法には踏み込まず、慰謝料請求も退けた。
 原告側の主張とされる信教の自由の侵害は、実質的な害が見られないとして退けられ、一方で私人として参拝したという首相側の意思も「職務行為」と見なされる結果となった。参拝時での公私不明瞭な行為が判断を困難にさせるようだが、首相はより公然と参拝すべきである。A級戦犯も祀られているとされる靖国神社に公人として参拝することの意義を、明瞭に説明するほどの意志が首相にはないのだろうか。たとえ太平洋戦争における極悪な戦争指導者であったとしても、視点を変えれば現在の日本を構築した政治的先輩に当たる。公人として参拝する義務とは言わずとも、権利は有する。
 しかし、今回の裁判ではむしろ戦犯合祀よりも、信教の自由が問われている。靖国神社は、明治初期に成立した国家神道を継ぐ一つの宗教法人である。本書では、日本の従来の神道というのは多神教で、自然信仰である。しかしそのままでは皇室の権威を支えるイデオロギーにはならない。全国で無数の神社の統廃合が強行され、ピラミッド型の階層秩序に組み入れられる。これが国家神道である。と説明し、西欧のキリスト教のように宗教のほうが元来強くて、世俗の国家がそれにどう対処するかという話とは異なり、日本では天皇制国家のほうが国家神道より強かった、としている。
 樋口氏の論点からすれば、靖国神社に参拝することを、寺社参拝という日本人の一つの文化的行為に当てはめることは困難である。文化は、国家に利用される人工物ではなく、人類が歴史の中で先祖代々築いてきたものである。首相は以前、正月恒例の伊勢神宮参拝を靖国神社参拝違憲論に対する反論として用いたが、国家神道の頂点とされた伊勢神宮ではあるものの、江戸期から庶民が生涯一度は参りたい神宮とされてきただけに、文化と見なす傾向が強い。結:政教分離の問題に抵触するかどうかの判断は、いかに国家が宗教を利用し、政権安定を図るかによってなされるべきであり、国民が様々な信教の観念を持ちうるとも、日本人の多数が受け入れる宗教に公が準じた態度をとることをも非難すべきではない、と思われる。【2004/11/26/PM】