南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

「ひめゆりの塔」鑑賞会

Nanjai2004-12-16
 北朝鮮への制裁問題がマスコミをにぎわす中、とあるサークルの戦争と平和について考えるフォーラムに参加した。「ひめゆりの塔」という映画を鑑賞し、意見を述べ合う。この映画を筆者が観るのは二度目であるが、ホロコースト関連映画にあるような強制収容所での虐殺シーンに比べれば、死に対する臨場感はやや低い。ただ女性を主人公として描かれる為、彼女らと共に戦争を経験している感覚になり、また戦争に対して悲惨さを感じやすいかもしれない。
 しかしながら、こうした地上戦をわずか半世紀強前に、我々日本人が経験したという事実を、映画の中における登場人物を通して知ることができるというのは、大変意義のあることである。この映画も、ディスコで明確な意思もなく踊りつづける若者達を映して、20年前に彼らと同じ歳頃の青年らが戦場の中で必死に生きていたという事実を、重ねるように捉えて始まっている。戦後20年だから、まだ沖縄は日本に帰っていない。安保闘争に明け暮れた若者は別として、沖縄を日本固有の領土と考えていた人々は、当時日本にいたのだろうか。ノンポリと称される若者達は、沖縄を日本の国土として認識していただろうか。
 「ひめゆりの塔」を鑑賞して感じたことを正直に述べるならば、沖縄とイラクは異なるということだ。沖縄市民もイラク国民も一般人であり、普段は戦闘員ではない。しかし、国家に対する被害者ではあるけれど、イラク国民は大部分が協力者ではないのだ。沖縄の人々は日本国民としての自覚があり、戦争遂行の意義を当時の解釈内容として解していた。心休まるときは民族舞踊を踊っていても、負傷兵士の前では国家に尽くすのであり戦闘員なのだ。イラクでは、フセイン支持者であろうと、米軍介入支持者であろうと、いずれの側の戦闘にも関与してはいない。政府の扇動から見れば、沖縄人も被害者なのだが、実質的な戦争被害者にはなりえないとは思う。まさに、イラクという土を踏む人間が死を余儀なくされるということを、沖縄と分けて考えるべき。
 戦前の国家忠誠は、公の精神を育てるには有効であったが、上による被害者という国民が出る結果となった。いつしか形骸化していたのだろう。その形骸化したものをそのまま活かそうとする傾向が、現在に見られる。
結:国家は、国土を基礎とし国民と政府で築くもの。その精神の崩壊が戦争だと思う。【2004/12/16/PM】