南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

憲法レポート(講義の概要と感想)【秋学期末レポートスペシャル】

Nanjai2005-02-13
 政教分離とは、信教の自由を確保することを目的とする。これによって、個人における信教の自由の保護、国家としての宗教的中立を保ち、民主的政治プロセスの健全さや宗教自体の純粋さの保持が可能だ。このような仕組みの背景には、戦前の国家神道の、政策決定や国民の信教への極度な介入に対する反省がある。
一方で、現在問題となっている首相の靖国神社公式参拝は、A級戦犯や天皇のために戦死した者だけの合祀にもかかわらず、戦後一法人とされた同神社を国家機関とすべく、躍起となっている様が窺える。直接準国家機関化は困難なため、公的性格を持つように見せる迂回戦略として、公式参拝が行われている。
 しかし、政府と宗教の完全な分離は、可能か。宗教的性格を失い、世俗化したものは認められる。だが、宗教系私立学校への助成金問題など、容易に解決できない例もある。この場合の政教分離は、どのように解釈されるのか。
 先にアメリカ連邦最高裁判所の事例と考え方を取り上げる。アメリカでは、政教分離の判断基準として、「レモンテスト」(以下三項目)が挙げられる。
①(立法)目的の世俗性
②効果が宗教を促進・抑圧しない
③過度のかかわりあい
 このレモンテストを基に、日本の事例を見てみる。市が起工式を、公金を支出し地鎮祭を主催したとして、政教分離違反で裁判となった津地鎮祭判決では、2審まで起工式の習俗性が焦点となった。最高裁では、完全分離は不合理として、基準を設けた相対分離を持ち出した。そこでは、目的効果基準として、①目的が宗教的意義を持つか、②効果が宗教の助長または干渉となるか、の二点が提示された。目的効果基準を、先のレモンテストと比較すると、①,②項はレモンテストを参照しているが、三項目の「過度のかかわりあい」が抜けている。そして、あたかもその項目がなかったかのように、2項のみの目的効果基準で「合憲」と打ち出している。
 靖国参拝問題にしても、地方における政教分離問題にしても、習俗化と公的な解釈を埋め合わせに持ち出して、公側の有利なように活用してしまう。政教分離が巷で詠われているが、現実には政治が宗教との癒着を指向しているように見える。このまま「習俗的」で誤魔化しながら国民の疑心と戦っていくのか。政教一体の時代を再考し、新しい政教関係を目指すのか。戦後極端に行われた政教分離の理念が今問われている。
【2005/02/13/AM】