〔後日注:これは南蛇井総本気が無知科学論講座と称していた時期、講義として書いたものである。言葉は非常に乱雑だが、趣旨としては概ね現行の「ほんねとーく」に繋がってゆくものと考えられるので同カテゴリに含める。〕
こんばんは、南蛇井です。いかがお過ごしでせうか。いつのまにか記事記入の上にツールバーがついておる。新しい発見だ。中年のオジンがパソコンを習い始めたときの小さなことへの大きな感動によく似ている。ストロングとか斜体文字とかリンクとか使えるんだろうね。ニフティで慣れているので説明略。
えっと今夜の話題は聖バレンタインズデーの虐殺だったね。上見りゃ分かる。バレンタインが近づくといつも浮かぶ言葉だ。なんて歪んだ心だろうね。聖は「せい」でも「しょう」でも「ひじり」でもなく「セント」と読む。あれだ、サンタクロースもセイント・アクローズとか分解して言ったりするのと同じだ。虐殺って言うと、シオの虐殺って絵画が在った様な気がするし、アウシュビッツでもあるし、イギリスのヘンリー皇太子だったか王子だったか以外は、意外と身近に知ってる言葉じゃないかと思うんだけど、なんで聖バレンタインに結びつくんかっていうと、アルカポネ主犯の事件らしい。以下略。
いつも心に・・・何が要るんだっけ?ハートじゃ可笑しいし、傷跡を。かな?違う違う。んなことはどぉでもいいのだ。この世で愛を語れる場所は一つしかない。それは、本屋だ。そこにはいろんな人生があって、いろんなマップがあって旅行関係雑誌があってエロマンガがあって、エロマンガ島に行くのはジェイエアでも中日本航空でもサウスウェスト航空でもなく、おそらく南洋諸島の一小島から不定期に飛び立つセスナ機であること、はどこにも書いてないような近ツーのパンフがある。もちろんデコトラアートの紹介誌だとか、めばえだとかノンタンの絵本ぐらい予約しなくても手に取れる。その中で敢えて果敢にも『世界の中心で愛を叫ぶ』を手に取らなくてもいいじゃないか、と声に出してカウンターの直近で言ってやったら、不審者と思われたのは事実。セカチュウ(←リンクしたいんだろ?しなよ《逆手のつもり)
セカチュウを手にとって未定な猿人に、俺は問いかける。愛は、重いものなのさ。告白された人や結婚したいって言われたとき、それを重いと感じるようじゃ、なんにも分かっちゃ居ない。愛を知ってる人には、それが熱くも冷たくも重くも軽くもない、一瞬で過ぎ去ったような、そぅ後には寂しさが残って初めて気付くくらいの感触、それこそが愛なんじゃねぇの。だから、ほら映画なんかで愛の物語を全部過程で見るじゃない?あれって、なんも感じちゃいないんだ。
演出は、やらない。演出に、乗らない。演出で、儲けない。いいか?これが俺の鉄則だ。なんて決めちゃったら経済界では食ってけないんだろうな。むはは・・・
市川拓司の『今、愛にゆきます』が映画に成ったらしい。彼の作品は結構生きてると思うよ。俺も一冊持ってるからな、ヮヶあって。あれは、電車男よりも語れるんじゃないかと思うので、そのうちテキストに使ってるみるよ、『恋愛写真』とかね。
それから、『16歳だった』って本があると思うんだけど、これも13日にパラ読みした。これもバレンタインには有効だなって思った。援交ガールの生き様。あれもそうらしいね、似てるとこあるかも、『蛇にピアス』だっけな(ど忘れ)
そして一夜明けると上の題名が現実になってるんだから、全くアルカポネ同然だよな。彼らもシチリアの経済格差に悩んでアメリカでヤクザになったわけだから、いわば見捨てられた存在なのかも知れん。寝屋川のプーもいじめを見殺しにされたって供述しているらしい。クリスマスのときに大学で語らったことだけど、クリスマス・プレゼントをもらうとか、派^ティーをするとか、チョコをもらうという、それは経済界の煽りであると同時に、世界(社会って言ってもいいかな)の中にいる個人が認められることの証なのかもしれない。屈曲の炸裂は、なんらかのタイミングがあるんだろうね。
どうだろう?今夜はちょっと締まりがあったかな?っていう講義でした。それでは皆さん、さようなら(秋略仁風