南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

俺は悪になれ!センチメンタリズム強行軍

〔後日注:これは南蛇井総本気が無知科学論講座と称していた時期、講義として書いたものである。言葉は非常に乱雑だが、趣旨としては概ね現行の「ほんねとーく」に繋がってゆくものと考えられるので同カテゴリに含める。〕

こんばんは、南蛇井でござぁます。これを書くときは、いっつも夜ですゎ。秋学期に受講した「アメリカの外交」という科目は、90分のうち4分の3を時事問題に費やし、4分の1を試験用に用いる。わしもその手で逝くことにしよう。

ていうか、最近俺らしからぬ人間関係というか、付き合いが多くなってきた。とにかく俺は集団を嫌う。逆かな。集団は俺を嫌う。どっちでもいいや。それから俺は、ある一定の人間と長期間付き合うのが苦手だ。理由は分からぬ。この辺のことをやけに最近考え出した。まずきっかけ第一弾は、バレンタインだ。こんな俺だから、もちろんチョコをくれる相手なんてないし、欲しいとも思わない。正確に言えば、この人生云十年間一度ももらったことない。それで構わないんだと長年思っていたら、この夏彼女らしいものが出来た。何こんなところで暴露してんのかと馬鹿馬鹿しいものを感じるかもしれないが、要するに俺は人間の心というものを捨て去るべく生きてきた奴だ。ところがこのとき初めて、俺は相手の心を思い、また自分の気持ちを素直に伝える機会を持ったわけだ。これはあまりにも衝撃的なことだったと言わねばならない。愛以上の衝撃と智を得た気がした。この辺りについては、凶刃的狂言の「初夏の薫り」という企画でかなり書いているので、読んでもらっても構わない。だが、俺はいつもこうなのだが、人間関係の限界が早い。長く同じ他人といると恐怖感を感じる。それはおそらく自身と相手の落差、結局どこまで付き合っても俺を理解し得ないのだという落胆か、いつかは読み取られ短所として認識されることへの恐怖なのかもしれない。あの夏の恋はそんな終焉と、彼女もまた俺に対する落胆或いは困惑と、他者への転移から別れる結果となった。またその話は、別の期日でしよう。

昨年暮れから、コンパニアと称するグループにかかわりを持つようになった。いろいろな活動に参加し、交流を深めるのは決して好まないことではないし、寧ろ内心ではそのような一瞬一時の交流は俺の望むところだ。しかし、俺のこれまでの性格から、やはり一線を引いてしまう。誰もが認められ、受け入れられる環境を主張する方、大変うれしいのだけど、何か縛られるとか、何か理解されない自分がそこにあった。活動の一環として、皆でアルバイトをして働く機会があったのだけど、接客の苦手な俺は対人作業で頭痛を起こしてしまった。気を使いすぎだ、というメンバーもあったが、それは違う。何も俺は自分が客に対してよく思われたいとか、話す相手に対して好感を得たいとは思っていない。俺は悪で貫く人間なのだ。俺は異質で貫く人間なのだ。しかし、雇用はそれを許さぬ。俺と客の関係は、俺の雇用者と客の関係なのだ。そこに俺は喘ぐのだ。俺が悪で異質で、相手に不快感を与えるのは、雇用者に対する営業妨害に当たる。それを俺は苦しむのだ。俺が固定のアルバイトを避けるのは、俺の異質性が大切な日本の経済界を運営する各々の企業様に、長期的なご迷惑をお掛けしない為である。雇用者にとって決して扱いやすい人間でない俺を、バイトとして預かるのは用意ではない。俺が集団に長期的に溶け込まない理由もその辺りにあるのではないか、と思う。それから、俺はおそらくこのグループにも長くはいないだろう、とメンバーに言ってみたら、やはり驚かれた。普通、学校や職場で同じ者同士、似た者同士が集まるようなのとは異なり、全然趣向も性格も違った人たちの集まりだから、そんなことはないと言う。たしかに俺もそれは認めるし、不思議な故郷感を抱いているのは確かだ。しかし、集団が運営されていく中で次第に俺の異質感は形を帯びてくるはずだ。そのとき俺は時を見計らって去っていくだろう。それまでにどんな対応が出てくるか、俺は楽しみにマっている。

一体俺はいつからこんな浮遊物になったのだろう。俺は兎に角元来浮遊物ではあった。しかし、学校内でも異常に人気があったし、好感度はいいほうだった。だが、集団への受け入れ度は低かった。何かとグループ化で蹴落とされ、また他人の真似をすることが俺にだけ認められなかった。要するに、俺は他と類似することが禁じられた人間なのだと、このときに自覚したのだろう。思春期以降は堂々と異質者への道を歩んでいった。俺は悪になる。俺は、良い常識と戦う。悪く言えば、歪み、傷跡、そこに尽きるのだろうか。俺はいじめや心の傷をいいバネにも悪いバネにもしない。いや、傷だとすら思っていないのかもしれない。まだ不可思議な自分である。また、続きは次回にしよう。