南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

ホリエモンとロリエモン

〔後日注:これは南蛇井総本気が無知科学論講座と称していた時期、講義として書いたものである。趣旨としては概ね現行の「ほんねとーく」に繋がってゆくものと考えられるので同カテゴリに含める。〕


堀というのは、城を守るために周囲に築いた人口的な谷のことだ。人間は自然物から自分の住処やテリトリーを建築し、また補強してきた。堀の内側には石垣、外側には地雷を埋め、堀の中には水を入れた。しかしあるときには、堀の中を電車が走ったり、鹿が草を食んでいたり、経済的事情で家屋を失った人々が生活する場となっている。
堤というのは、海岸や河川の災害(自然災害および人的災害←蒙古襲来など)から、自身を守るために築かれた人口的な山脈のことだ。人口的な山脈だから、「人脈」と呼ぶこともある。立山とか乗鞍とか穂高のような、冬期スポーツの天下や登山の名所を頂点とした、いわゆるピラミッド型の山脈は、脆い。物見櫓一つに火を放てば、崩落したかもしれない堤が、火器を使用した蒙古の襲来を食い止めたのはおそらく一点集中、一極集中でない均等な土塁のおかげではないだろうか。万里長城(ワンリーチャンチャン)が崩壊しなかった理由もそこにあるのだろう。

個人批判にはならず、あくまでも抽象表現である。中傷じゃないから、発言として許容の範囲だろうと思う。何が読み取れるかは、個人にかかっている。作品は、完成を見ることなく、製作者の決定なくば、未完である。「神」の創造にもとづく現世も、未完である。その解釈は、(解)読者に委ねられ、翻訳者が新しい解釈への刺激を与える。それをもとに、我々は作品を創るのではなく、ただ延々と解釈を発売し、その価値を失くしていくのである。今や、種の起源や質量保存の法則などは、格安の100円均一か、99円ショップか、あるいは駅や街頭で風俗店の広告を表され、ばら撒かれているに過ぎない。如何に精巧な科学技術を施した新札であっても、翌日には偽札が巷を歩き、新札の価値はどぶに浮かぶ通信簿だ。聖、尊さは、神が一瞬の間だけ見せる進化の過程でのカラクリ、人間はそれを解釈し、価値をわざと高そうに見せて売りさばく。本当は、本質以外はおが屑なのだろう。せいぜい論文のシワか、スーパーコンピュータのゼロコンマ?の狂いほどにしか価値のない、数多くの解釈がカネの為に動かされているわけだ。

いい例が上にある。堀江社長の名声と彼の経済界における旋風を「ホリエモン」と呼ぶ横から、俺は「ロリエモン」と言う。そのとき、一言葉の解釈は一転して価値を落とし、たちまち路上生活者となって街へ出て行くだろう。ただしこのとき、「ホリエモン」も「ロリエモン」も未完である。

皆にわかることを書くのは俺じゃない。皆が当たり前に思うことを書くのは俺じゃない。今夜はそんな風に語ってみた。それでは、また来週。