南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

空元気

〔後日注:これは南蛇井総本気が無知科学論講座と称していた時期、講義として書いたものである。趣旨としては概ね現行の「ほんねとーく」に繋がってゆくものと考えられるので同カテゴリに含める。〕


知っての通り、南蛇井もいっぱしの大学生だ。大学という集団というか、システムの仲に組み込まれている以上、ある程度の強制には従わねばならん。卒業式で「日の丸」を掲揚したり、「君が代」を唱和したりすることに、異常なまでの強制感を感じて抵抗運動を起こす方があるが、これは国家における最低限度のシステム、すなわち国家が統一を保つ為の一種の義務行為であるとすべきである。したがって、南蛇井様が3つの科目を脱落したことが、大学の在籍証明書などに汚点として永遠に記されることと同様に、教職員や生徒が反国家主義としてのレッテルを付されることも、俺としては容認できる。なぜなら、人間、国民であることが全てじゃない。国民としての所属を求めるなら、それ相応の最低限度の義務を果たすべきなんである。学生には、例え単位取得が内心の目的であっても、学問に身を投じることが要求されてくる。それを怠るならば、学生として大学に所属することは認められない。ということで南蛇井は中退を本気で考慮し始めた。

もっともここまで大層な国家主義に基づく、大学の成績評定に対する脱大学論をまとめたのは、単なる強がりであって、実際は親にアルバイトを倹約せよとまで要求されて、こんなつまらぬ大学でおべんきょなんざできるか、このドアホ!と逆ギレしてなぜか大学に来てインターネットをしている俺なのだ。俺は決して、大学の教授連が南蛇井の将来に全く役にも立たないことをばら撒いているとは思っていない。須らくの講義に知られざる神秘の世界への鍵を一句一句放出しておるんであろう。学生どもはそれを取捨択一して、咀嚼して新たな糧を掴み取り吸収し栄養としまたは光合成のように養分を生み出す為の酵素にするんである。これが最も重要な大学の原理なんだけれども、それに付加価値を加える為に、大学がより優秀な人材を輩出した事の証明のために、成績評定を用いるんである。俺はこの大学にとっては優秀で有益な人材ではないけども、何か得たものを今後に生かしてゆく精神があれば、まず大学における個人としての価値は認められる。しかしシステム上の学生としては認められんということだ。わかったか。はい。

いつも南蛇井はこんな感じだ。多少大それた過ちを犯しても、外側から原理を考え、自身を尊重したのか、非難したのか分からないような結論を迎える。下手すると、根本的な反省はなされていないのかもしれない。とにかく、マイナスに為ってはならん。かといって、他を攻撃しても遺憾。無理はせん。なんとかなってしまった結果が、今の南蛇井様だからな。