南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

当代隋一の帝王、南蛇井様の吠え声

〔後日注:これは南蛇井総本気が無知科学論講座と称していた時期、講義として書いたものである。趣旨としては概ね現行の「ほんねとーく」に繋がってゆくものと考えられるので同カテゴリに含める。〕


また、しばらく花粉症で気落ちしてるところへ、半年も前に切れた彼女のIリターンの気配があって、さらにセンチメンタリティー罵詈ゝゝにのめされちまった南蛇井の気合入れの迫撃砲

久しぶりに話そう、と誘われ、ちゃとに行ってみた。何かと、あの後の事を尋ねてくる。あれ以来俺は一人ぼっち。でもないけど、いわゆる恋愛における交友関係は皆無に等しい。数多の試みは、凶刃的狂言でも公開させてもらってるけれど、これといった目ぼしい結果が出ているわけではない。所詮南蛇井と友好な関係が出来るはずが無い。なぜならば、南蛇井は当代でも珍しいとされる、他人からの好感を必要としない人間である。他人がなくとも、自分の架空世界、想像世界を幼稚園児の頃から築き上げ発展させてきた人間であるから、他人がなくとも自己を形成する能力を有していると自負している。架空世界の拡大ぶりは、想像を絶するもので(架空が想像を絶したら如何なる状況か?)、いくらでも書に著せる自信がある(実は文章力が無いが)。兎も角、俺の長期的人間関係には限界がある。昨年12月から、とあるサークルに顔を出すようになったが、このところボチボチ自然消滅の時期かと思案しているところだ。尤も彼らはまだ南蛇井の性格と意向を把握していないようだから、消滅しても存外驚きもせぬかも知れぬ。
これは、南蛇井が身勝手な人間なのではなく、周囲が俺を解さんに過ぎないのであって、俺はどんな相手をも解し、また心底から大切に思う気持ちは変わらない。俺はこの世に必要とされないのであって、必要とされるときそれは悪なのであろう。しかし、それもまた存在の一種なのだから南蛇井として拝して受け止めるべき事象である。不要ならば捨てられて然るべき。その選択こそが貴下にとって最も正しいものであるよ。恨み憎まれ疎まれるほど存在を俺に与えてくれるならば、それこそ光栄である。よって、南蛇井が何者かの手で殺されこの世から消し去られるとき、ある者は悲しむとしても、それ自体が存在なのであって、この世からワザワザ手間暇かけて消し去ろうと行為を起こすことこそ、我に存在を下さった証しと為すべきなのだ。
と、このように一見捨て身のように思われるほどまでに自己を投げ打ってまで、人間と交友を共にする必要性があるのかどうか疑心を抱かずには居られないものの、本心はやはり人を求める。それが人間なのだ。だが、彼女と直面したときは意外にも冷静で、先の捨て身論が輝かんばかりに先行してしまった。やはり本音は言えんものである。自己は中々大切に出来んものである。忠君愛国の源でもある「自己を貴べ」を体現するのは、何につけても難しい。
尤も、人間と交友しないことが自己防衛に当たることもあるのだろうが、それは寧ろ鎖国でしかない。南蛇井も短期的な出会いは大好きなのだから、決して門戸を閉ざすことが根付いているのではないのだ。ただ俺と永く共に生きることは、相手に対して害悪や不幸を与ふるのだと、密かに硬く信じているキライがあるということだ。心理分析は難しい。また行うかも知れぬ。今夜はこれまで。