南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

革命文

〔後日注:これは南蛇井総本気が無知芸術論講座と称していた時期、講義として書いたものである。趣旨としては概ね現行の「ほんねとーく」に繋がってゆくものと考えられるので同カテゴリに含める。〕


うるせーんだよ、この馬鹿野郎。俺はおめーらみてぇな真っ当な生き方はしねえんだよ。まっすぐ生きる奴には理解できねえんだよ。ちょっとばかし、理性的だからって人の心なんて見抜けやしねぇ。誰にも解されない心って奴をぶっ通してやろうじゃないの。昔日本が国際連盟を脱したときの、何か日本が独自に考えていた国家ってモノを、結末は敗戦となっても貫き通してやったように(実は貫ききれずに脱線か挫折したから東亜に迷惑もかけたがな)。咲いた花なら、散るのは覚悟。

どこにいても、誰と接しても、この気持ちは必ず沸いてくる。周囲によく思われたい、好感を持たれたい、社会的欲求ってモノを本気で求めない人間になってやる。悪で貫け。悪を承知で、それが正義であるかのように。暖流に屈するな。寒流に服するな。人差し指を天に突き立て、革命を叫べ。

最終目標は、人に認められることでも、求められることでもない。しかし、認められ求められなければ、死ぬことができないという矛盾がある。氏ね、という命令は俺を認めなければ下されない。死ぬべきときに、潔く散れるかどうかに、俺の最終的な存在がかかっている。懸賞金は一滴の血か、一滴の愛か。どちらも求めない。この世からの、最も確実で最も明瞭な、俺の抹消である。悲しみを残すならば、それは明らかな残影であり、それこそが俺にとってもまた悲しむ者にとっても確かな罪である。残像を悉く破砕し、悲観者により正しい大切なものを選択させねばならない。ある人間(即ち南蛇井のこと)の死よりも、否、南蛇井の存在よりも、もっと貴下の人生に偉大なものへの愛着を尊ばねばならない。

これらが如何に悲観的な人生観かと思されるかもしれない。が、もし自分が視覚聴覚その他に、いかなる不自由もなく、社会的に不要で、明らかに貢献性のない、無能で消極的で連帯性がなく、生きていけない人間であるならば、それは死に向けられた肉体に過ぎない。死こそが、社会のため、人類のため、国家のためであるならば、その選択はまったく正当で精確である。

ここで誤解したり、混同したりしてはならないのは、例えば先日の福知山線事故やWTCのテロ事件で亡くなった方々が、死を求められた存在ではない、ということだ。少なくとも彼らは死を選択したのではない。ただ世界運営の連帯責任のためにやむを得ず犠牲になった人々なのだ。最も混同の対象となり、まだ南蛇井も解明が完了していない事項に、神風特攻隊や沖縄の集団自決がある。これは微妙な例であるから、世界や国家の不条理なのか、生を絶つべき選択であったのか定かにはできない。

過去の経験が現在の生き方や考え方に影響している、という説がある。否定はしない。しかしそんな見方をされるのは不本意だ。例えば過去にある集団から排斥された経験があるからといって、内的心理に誰かに構ってほしいとか、愛情を求めているという固定観念を置きがちだが、そんな生半可な同情を欲したいとは思わない。孤独の槍使いを弁えていれば、図々しいに過ぎないのだ。そんな全体的・抽象的な接触ならば、寧ろ槍で突き返すところである。根元を知ろうとしなければ、俺を認めたことにはならない。俺の手中にて永遠に振り回され、そのリスクにだけ気づき、やがて諦めるであろう。それは言うまでもなく、南蛇井の死生観が大勝利に導かれる瞬間である。

俺の発言は、しばし喧嘩腰と言われる。左様である。俺は批判を嫌わない。尤も、中途半端で批判しているのか、否定しているのか分からないような代物は受け止めるというより蔑むのだが。いずれにしても、南蛇井が何を言おうと、その場限りのマッチの火である。アルコールランプに点火し終ったら、水入りビーカーにポチャリと入れるような存在にある。しばしの炎に緊張感と一瞬の反応を求めるところだけは、何がしか人間性を持ちたいと思うのかもしれない。ビーカーの中で、名残惜しげにファイヤーを楽しむように、南蛇井の一言一句をかみ締めてくれる人間がいるとは思わない。ここに書いている以上、想定外ではないが、想定度数はかなり低くなる。否定・嫌悪・無視・ノーコメントが最も想定度が高い。ただ、喧嘩腰の理由は、単なる刺激のし合いを求めるからに過ぎないのでもなかろうかと。

南蛇井の与える刺激を、利と取るものは即ち、反撃の要素であって、相手の人生に順応するものではないであろう。なぜなら南蛇井の死生観にマッチするものは、この世に存在しえなく、この世の大多数が保持する信条は、南蛇井が屈し得ないものなのだから。したがって、南蛇井が相手に付与するものは、紛れもなくリスクに他ならない。この世の人類にリスクや迷惑を付加させないためには、南蛇井の抹消が先決であるにもかかわらず、この世は愚かしくも抹消を受諾しないのである。

如何にこの革命文が、南蛇井の自己満足や悲観主義ではなく、この世の全人類が最も幸福に生きるために南蛇井の抹消が正当事由に基づく主張であるということを述べているかがお分かりいただけたんではないか、とおもわれる。リスクを背負うのは南蛇井と接触する貴下である。適応性のない人間を排斥するのは、社会の役目である。それを体言化するべく、南蛇井は今後も凶刃的狂言での駄文・論文などを通して芸術的に主張していく。