南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

無計画テロ(世弥)

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 一見すると社会問題を取り上げたようだが、実際にこのテロを遂行したのは筆者なのであって、知的な人間からすれば単なるゼミの冒涜か、あるいは非協力的な行動であり、ここに記すほどの主張性はないのであろう。寧ろ日記か、無知科学論講座でほざいていれば結構だと思われる。しかし、そこを敢えて「テロ=芸術、即ち表現」であるとするならば、この凶刃的狂言の主旨に合致しているのではなかろうか。否、寧ろ合致させることが筆者に課せられた義務である。
 筆者は大学入学当初、ある構想を抱いていた。それは、天にも届かんばかりの教授閣下と我ら学生どもが如何に接点を持ち、ゼミなどという公式の場を介さずして議論し合えるか、という儚いものであった。この構想は間もなく実行に移され、ある必須科目における教授の講義態度について争うこととなる。これは双方にとって大変刺激となり、筆者は若干陶酔した。しかし、講義への質問も含めて、2年次には後退の一途をたどる。大学より、それほどの刺激を受けようとも与えようとも感じない、不干渉を望むようになった。
 そんな状況にゼミナールという新しい環境が設定された。再び、例の構想に復帰する余地ができた気がした。ところが、毎週行われる報告会は全く刺激を感じさせなかった。理由はひとつ、議論がない。わずか7名のメンバーが議論をしたことがないのである。教授への質問とコメント程度で授業が終わってしまい、何とも物足りない。
 筆者は普段から、質問ではなく議論の形に持っていこうとするのだが、これは喧嘩に取られるらしく、あまり好意的な結果は返ってこない。そこで先週、ついに極端な行動に出た。ノーコメント。単にコメントする事柄がなかっただけだが、好機的攻勢になった。だが「これは許されない。ゼミにならない」と質問攻め。元々碌な展開になっていないではないか。今更言うことでもなかろう。2年間様々な講義を受講しているとはいえ、卒論の計画を立てたりするにはまだ知識が足りないのは承知である。しかしながら、何故学生同士が意見を戦わせられないのか。全くゼミの価値観が感じられない。
結:次は全面蜂起か。【2005/06/23/PM】