南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

『もののけ姫』解釈

 この映画を何度も観ていると、次第に構図が分からなくなる。最初は、監督のCG構成をふんだんに用いた駄作と見なしていた筆者であるが、そのメッセージ性は異様なほど複雑である。尤も、常に映画の解釈を世に公表するマスコミによれば、エボシ率いるタタラ場の情けなき山林開拓と資源搾取、そして古い神を退治し、物の怪の威力を弱めようという試みに対し、山犬の姫ことサンの自然を守る熱意が立ち向かう。しかし、そのような解釈法は、監督にとっていわば子供だましか、あるいは寧ろ敵なのであって、上記のような構図であれば、既に『風の谷のナウシカ』でほぼ達成されている。一般社会で単純な善と悪の対比構成が通用するのは、同氏の後半作品においては極めて少ない。単なる対比であれば、アシタカの存在は不要である。
 映画の末端で、ジコ坊が「馬鹿には勝てん」と呟くシーンがある。彼は早くから物語に登場し、人間臭い世界と神々の宿る世界を誰よりも熟知している。しかし、彼の目的は常に利益を得ることであり、上記の善と悪のような対立がいかなる展開にあっても、自己利益を優先する。そのために両者を利用する。彼は勿論アシタカすらも利用できると思った。が、アシタカの意思は常に対比の中に無く、共存を基本としている。
 実は、先に挙げた構図は、対比ではない。寧ろ共存なのだ。なぜなら、エボシは誤ったことをしていない。彼女は、下界で受けた傷をそのままタタラに持ち込み、遊郭に売られた女性や皮膚をも見せられぬ病人を雇って製鉄を行った。いわば下界から社会権を奪われた者達の存在を認め、それによってエボシ自身の自己を確立したかったのであろう。人間が人間として生きることになんの誤りがあるか。一方で、山犬と育った姫は人間の生き方そのものを否定する。神々と動植物が生の中心であり、それを壊しては生きていけない。これもかけがえない主張である。しかし、互いに心に夜叉を持ち、欠けた部分を認めず、主張だけを誇りにいがみ合う。
 初めてタタラを訪れたアシタカは、エボシの秘密やタタラ踏みの情景を見つめながら、共存の道を選んだ。彼は東の果ての、背景から言えばやや文明の遅れた地に住み、常に自然と接してきた。だから、彼の心境からすれば石火矢の飛礫を放ったエボシに対立感を持つはずである。しかし、人が人として生きられる空間であるタタラに接し、タタラを否定することが「曇りなき眼で見据えた」結果にはならないのである、と感じ取ったに違いない。この彼の存在こそが、当映画の主題なのであり、監督自身なのではないか。
 ところが、物事は常に○か×か、黒か白か明瞭でなければ、自己利益に不利になると考えるものがいる。そして明瞭さをいつも求め、一方でその脳中には両者の利点と欠点がしっかり把握されている者がある。それがジコ坊として、表されている。そう、対立はアシタカとジコ坊なのだ。そして、監督とマスコミでもあるかもしれない。氏の複雑且つ婉曲的な脳裏は、未だ正確に理解されていないのではなかろうか。