南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

鈴木貫太郎という日本人

「夕歩道」4月12日付(中日新聞夕刊)
注目は、中の段落。鈴木貫太郎は海軍出身で、太平洋戦争を先頭きってリードしてきた東条や小磯など陸軍系とは政治的な感性が違うのかもしれない。
「中日春秋」4月4日付(中日新聞朝刊)
こちらにも、海軍大将時の鈴木氏にまつわるエピソードがある。戦争に勝つことが急がれる当節であっても教育を長い目でみる冷静な姿勢は、明治教育が非難される昨今において、陸軍政治家の暴走を阻止は出来ずとも、現代から見ても十分立派な人物を育んでいたことを証明するものである。
前の記事に戻ろう。いかに教育において冷静かつ人間的な姿勢を貫いていたとしても、やはり軍人の身。敵国(しかも当事、やむことなく自国内の主要都市を爆撃していた国)の元大統領が死去したとあって、それに哀悼の意を示すその胸の内は。
たとえ自国に蛮行を施そうとも、それは2国間に故あってのこと。一人の政治家として、他国の一人の政治家に対する哀悼は、敵国同士という条件を越えた人間的な気持ち。
戦争を導いた者、終戦を導けなかった者としての罪や過ちはあろう。が、決して軍人を十把一絡げに戦犯と葬るのは、その子孫として正しいことではない。靖国が今、問題となっているが、現在と異なる教育や法制度環境、思想の下に生き人々を指導したからといって、その死を等閑に扱うことがあっていいものか。
国と国の相互関係は、決して人の心に沿って動くものではない。軍人一人一人の心を開いてみれば、それは百人百色、そして近代教育の下、日本人としての誇りに満ちているはずだ。死すれば、その政治的罪が問われないということではない。しかしながら、死に際して或いはそれ以後、死者の罪のみで非人道的な追悼がなされてよいものか。それが自由民主主義の映える日本で、あって良いものか。
我々はまさに自国の先人に学ぶことなく、アドルフ・ヒトラーに倣っているのである。