南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

東北アジア共同体への展望―人間心理「葛藤」からみた外交

 今年の第一回外交講演が、駐在韓国大使である羅鐘一(ラ ジョンイル)氏を招いて開催された。面白いのは、今日名古屋Cでは、NHKの万博以来続く番組“旅するラジオ80チャン”を招致し、「アジア交流の何とやら」と称する企画が催されたらしく、この対称的講演のようにも感じられる。そんなことはどうでもいいと思うかもしれないが、普段はどちらかのキャンパスで講演を行う際、同時中継なんかをセットして講演を共有できるようにするのだけど、今回はそれが無かったので、余計に上記の匂いを漂わせるのは南蛇井の心中だけなんだろうか。
前置きが長くなって申し訳ないが、よく講演で司会を務めるYという教授は、非常に態度が気に食わない。変にゲストにばかり謙って、我ら学生に対する目に見えた高圧感が極度に落差をもって表される。きっと我らだけでなく、講演者も見ながら辟易しているのではないだろうか、と、ふと思うことがある。先のゼミ転向でその研究範囲から薦められた教授でもあったが、講義すら一度も取ったことないし、また取ろうとも思わない。相当な拒否反応が反射的に現れる。陰口は良くないのだけれど。
 羅氏は、米国の某有名大学に留学し政治学を専攻、一時は教職にも在られたそうで、学生に向けて講演することには慣れた雰囲気。序盤から冗談がこぼれ、その面持ちから受ける圧迫を妙にほぐしてくれる。通訳も韓国人なので、時折日本語でも音の怪しい語句が出たりして、戸惑いを見せる学生もあったが、韓国語の全く分からない筆者には恐らくかなり正しい翻訳がなされているのだろうと信じるほかない。韓国人留学生や、第二外国語にハングルを選択した一部の学生には、ニュアンス的なものを感じ取ったりして、通訳鵜呑みの筆者よりは良い訳語を思い浮かべている方もあるかもしれない。因みに、その通訳の方は名城大学の教授だそうである。あまりこの時点から疑い深くなるのも、彼の立場を考えて宜しくないだろう。
 さて、講演の内容を要約してみよう。表題にも掲げたとおり、そのキーワードは「葛藤」である。葛藤とは、自己と他者を区別するところから始まり、相手との間の差を認識することによって、そこから利害関係が生まれる。さらに発展すると、対立あるいはゼロサムゲームのような一方が得をすれば一方は損しか在り得ない様な構造が生み出される。これが国家間の問題となると、羅氏いわく「超葛藤」と呼ばれる究極なものになる。
しかしながら、社会において、葛藤のない関係は問題である。氏はかつて、妥協が進み葛藤のない社会といわれた共産圏を旅して、感情や意見を押し込められた偽善状態の現実を見て疑問を感じたという。葛藤を表に出せず、政府などによって封じられた社会(共産社会)は、正常ではないと感じたのだろう。
この、葛藤の適切な処理に成功した国が韓国である、と氏は論ずる。1945年、朝鮮半島は長年の日本植民地統治から解放されたものの、世界最貧国のひとつであった。さらに朝鮮戦争や内乱によって韓国は荒廃し、非民主的な国家となる。復興に向けた息吹の中で、ハワイから受けた寄付を工科大学の設置に注いだことで、国内からの大きな批判を受けた。韓国に工業化はまだ早く、発展し得ないので、農業支援に重点を置くべきだとする批判である。また、国外からは、韓国に民主主義は実現し得ない、という批判や見解が強かったという。こうした批判をうまくバネにして、葛藤を乗り越えることで、工業化による経済発展に成功し、また民主的な体制の形成に成功したというのだ。
また、現在の南北関係についても、人道的立場からの北朝鮮支援政策に対して様々な批判が高まっている。南北統一はひとつのアジェンダであって、北の人間の生活水準向上こそが現在の課題であるとする。
 尻切れトンボのようだが、講演はここで終わる。「葛藤」をキーワードに展開されてはいるが、イマイチ要領を得ない感じがあった。30分余り質疑応答がなされ、閉幕。質問の内容に関しては、米軍駐留や竹島拉致問題といった具体的な事例への同氏の意見を求むものが占めた。羅氏は返答の冒頭で、大変質の高い質問である、と感服されたけれども、決して講演に直接関係するような内容でなかったことから、予め質問を用意して講演の内容に関わらずぶつける心算だったのだろうから何ら面白みがない。この点から徐々に本論に入っていこうと思う。
 今回の講演は同氏にとっても、韓国にとっても極めて有益な講演であっただろう。それは、我ら学生が熱心に講演を聴いていたはずながら、平凡な質問しか出なかったことにある。確かに我々は、学術本を読み、メディアを通じて様々な日韓を取り巻く現実について理解している。だから、今回の質問者にもそれが現れ、質問内容には過剰なほどの漬け込み知識や情報を盛り込んでいた。ところが、それに対する氏の返答は、全く具体性をもたず、「葛藤」論に当てはめる形での“解説”のようになった。恐らく質問者にとっては要領を得ず、物足りなかったことだろう。筆者が質疑応答を聞きながら、一つ注意していたのが、竹島問題を答える際の発展事項である。靖国問題、歴史認識にも言及し、「葛藤」を認めつつも、世界に通ずる一定の共通見解を持つべきだと解く。これは直接的に学生側から質問が出なかっただけに、韓国流で話しやすいのだ。明らかに乗せられていた。竹島問題そのものについても、韓国併合頃の悲劇的な歴史的背景を持ち出し、完全に日本劣勢であった。
講演と質疑応答をまとめると、要するに「葛藤」のキーワードで日本人を釣ろうとしたが、意外にも学生が乗らず、現実問題の知識公表と韓国流の見解追求に拘ったため、逆に利用して“外交的韓流”の説法布教に成功した、ということだ。それだけ、我が大学の学生が、歴史問題や近隣アジア諸国との関係について、留学生に対する遠慮もあるのだろうが、「友好と平和(共存etc.)」を底辺に置いた思考しかできないということである。留学生だって、日本に来て、たとえば極右団体のウェブサイトを検索したりとか、実際に交友を持ってみようとは考えないし、したがって自分の身近には友好的な日本人しかいないという仮想的な日本見解をもって帰国するに決まっている。「葛藤」という言葉にたいした反応ができなかったのは、相当反省すべきことだと思う。
 以前、この“ほんねとーく”で、政治家はもっと国民を強制するくらいのビジョンをもって行動しても良い、と論じたことがあったと思う。「葛藤」の適切な処理による成功の話を聞いていて、非常にこの点と共通しているように感じた。政府の大きな展望と現実に暮らす国民とのギャップは常に激しい。その展望があまりに無謀であると感じるときは、その批判も増す。「地上の楽園」と言われた北朝鮮は、いまや世界最貧国の一つともいえる。戦争で荒廃しきった韓国を、発展の源である第一次産業(輸出用作物の量産など)でなく、将来を大きく展望し工業に重点を置いたことは、国民との葛藤をもたらしたが、その成功によって政府信頼を生み、新たな発展へと歩むことになったのであろう、と筆者は解釈する。無理だ、不可能だといった期待のなさを、逆に成功での反応の大きさに変える。これが「葛藤」の処理ではないだろうか。現時点では、政府にも国民にも利益が齎されなくとも、様々な葛藤を克服する中で、ある政策が成功に導かれていくことで、最終的に誰もが納得する段階が生まれる。
いま、日本では教育法や国民投票法など、本当に今必要なのかが問われるべき法案が検討されている。政治家が多少の犠牲を払ってでもこれを為すというビジョンを掲げて、進めているのかどうか。そして、国民はそれに対し、いまの利害関係でなく、将来を展望した上で政府との葛藤状態を形成しようとしているか。韓国の成功例を聞いて、わが身を振り返ることができたかどうか。これが、この講演で着目すべき第一のポイントである。
 この点を踏まえて、では氏が「葛藤」を認めるならば、日本にもこのような状態があっていいのではないか、ということができる。それは、小泉総理大臣の靖国神社参拝である。彼は内閣総理大臣として、公式に靖国神社を参拝し、英霊のみならず戦没者すべてを含意して哀悼の意を示している。これが靖国を司る宗教団体への利害関係だとか、一部保守団体への配慮だといった批判が高まって一つの論争を形成している。それでも、小泉氏は自ら、「日中・日韓友好論者」だと称し、二度と戦争を起こさない気持ちを込めて参拝するのだと常に述べている。国内において、総理の参拝行動と国民の批判(あるいは賛同)が巻き起こっているが、これが最終的に東アジア友好の礎となるならば、葛藤を経て成功した事例の一つになりうる。イラクへの自衛隊派遣は不振に終わりつつある。国民や党内の抵抗勢力との葛藤を乗り越えて、日本国民が納得し且つ近隣東アジア諸国との融和を保つ歴史見解が打ち出せるならば、日本国民は短絡的に諸国との妥協に走らず、海外での葛藤に目を向けるようになるのではないか。そうなれば今度は舞台が外交の場に移る。日本が提示する歴史見解には、まだかつて侵略された国にとっては受け入れがたいモノとなるかも知れない。しかし、「葛藤」が認められるならば、常に主張し摩擦し、それでもキレないで交渉する中で、必ずや認められることになろう。無謀な展望ではない。アジアの先駆者たる日本が、「葛藤」を恐れて妥協に追随していることが問題なのだ。かつてのように、始めから勝ち進む時代ではない。だが、「葛藤」を経さえすれば、認識される力をもっているはずなのだ。現時点での利益、あるいは友好などにとらわれて、摩擦することに怯えている。他者・他国を認めるには、妥協と協調が最優先であると考えている。
わしは前から言っている。自国ならずして他国の心配などできない、と。人間でいえば自分自身、国なら自国を認識し愛せなければ、他者・他国とのいかなる関係も生み出せないのだ。自分ができていて、他人と摩擦するからこそ、その上に友好ができるのだ。始めは馬鹿でもいいから、自己を主張するんだ。
◎友好を底辺に置くのでなく、頂点に置け。これが一つのまとめ文句かな?(K.K.なら〔結:〕と書くところだね)
末尾ではありますが、日本人の軟弱な思考に喝を入れようと試みて下さった?羅氏に大変感謝いたします。東京から御足労頂き、200人余りの学生諸君を前にしての講演お疲れ様でした。またの機会(在学中は有り得んか)をお待ちしております。