天照寺の朝
今回泊まった天照寺は、天台宗の寺として建立され、のちに浄土宗に改宗。中世に一時荒廃したらしい。また明治の廃仏毀釈に際して、天照寺を天性寺に、地名とも改称させられた。のちに寺名だけは戻すことが許されたが、地名は戻せなかった為、今も「天性寺町」という。天照を廃されたのは、おそらく「あまてらす」が寺では拙かったのでしょうな。
朝6時に目覚めた。空腹のせいだ。朝食までたっぷり時間があるので、境内の散歩。朝市まで行ってると朝食に間に合わない。白人の方々は朝食をとらずに発ってしまう。かつて東北で「YHの朝飯は美味い」と熱弁されたことがあるが、これは嘘ではないので是非食べてって欲しい気がするのだけど。
昨夜中国語を話していた家族が、台湾人であると知るのは朝食の席。日本人3人と台湾の家族の計6人で、500円の朝食。相手が中国人と聞くと、すぐに調子に乗る南蛇井で、実のところ通じてもいない英語と中国語と日本語でコミュニケーションをとったふりになっている様は、隣で見ていた人には奇妙なものだったに違いない。昨夜疲れていてやれなかったもんなぁ。通じていない英語に注釈をくれた女性は東京から。白川郷を観て家族と別れ、バスで夜7時頃着いたのだそうだ。私が風呂に行くときにフロントで見た人だ。
純粋な精進料理ではないけれど、ご飯、味噌汁、海苔山菜がそろって美味しかった。
9時11分発でさらなる北を目指す前に、朝市に寄っていこう。では一夜の宿に拝して、出発。
宮川朝市
朝市といっても、もう8時になっている。今朝ついた観光客も集まってきている。新鮮な青果、お土産のお菓子、特産品を売る店が並んでいる。地元のおばちゃん、おばあちゃんたちの素顔が見れるのが面白い。一通り歩いて、ひとつ気になったのが「まぼろしの牛乳」。100円で売っているらしいのだが、姿が見えない。表通りでは飛騨牛乳(我が家で定期的に配達してもらっている馴染みの味)が瓶入り200ccで売っていたが、朝食で満腹のときに飲んでもあれだと思って、いずれも買わなかった。今帰ってから思うと、このとき買わなかったのがまた後で好結果を産んだのだろう。
国分寺によりみちしたのは特記しないのかい?
北へ、北へ、猪谷へ
高山から先は、幼い頃も含めて、まったくの未開です。飛騨古川から先は本数も少ないので、乗車率高い。すると不安になってくるのは、角川から猪谷までの代行バス。台風23号(昨年)の影響で、現在同区間は列車を運行できない為、角川から代行バスが出ている。バスが小さすぎて乗り継げないとなったら、、、という不安があった。
勿論そんな馬鹿な話はなくて、バスは2台以上用意してある。1時間強も乗っているのでトイレに行けないのと、混雑した車内で足が伸ばせないこと以外は、まぁなんとかなる。角川駅は普段なら無人の停留所だろうが、同区間運休のおかげで開業以来の盛況さではないだろうか。大型バスが出入りし、旅行者が乗り換える光景なんて、駅周辺に住む人々も一生見られないのじゃないか。狭い角川の集落を出ると、バスはまず高山線の線路沿いにぐんぐん戻る。もぅさっきの飛騨細江駅だろ、っていうくらい戻ってやっと国道41号線に入る。JRとしては走らせられるだけ北まで行こうという考えなのだろうが、なんのために角川まで行ったか分かりゃぁしない。列車でわずか4区間なのに1時間もかかるのは変だと思ったが、ここにその綾があった。3-40分乗った頃、高架を一つくぐった。おお高山線直ってきているな、と喜ばしい気持ちになった。このシーンをちょっと覚えておいて欲しい。あとで言及する。
1時間強というのは余裕を持ったダイヤで、実際は10分くらい早く着く。ちなみにバスはJR社でなく、濃飛バスだ。
神岡鉄道の起点、猪谷
台風で角川⇔猪谷間が不通になってから、これはもぅ廃線までに行けないだろう、と思っていた。しかし、こうして起点までたどり着けたのは幸運だ。猪谷も普段は無人駅で、列車が到着すると駅舎に人が入る。ここでは乗り換えに20分あるので、駅まわりを歩き、神通川の橋上で思い切り風を浴びる。狭いバスから解放されて、足が伸ばせる。
「おくひだ1号」が入線。我先にとカメラを持って駆け寄るマニアな人々。私は興味はあるけど、できるだけ自然に乗りたいので、記念切符も買わず両替だけしようと思った。が、切符の購入も精算も車内でしかできないため、混みすぎ。諦めて、一番良い席を陣取ってカメラさんを妨げてやる。
トンネル鉄道
トンネルを出たら駅、駅を出たらトンネル。ときおり高原川を渡る。短時間しか景色を見られないので、その一瞬一瞬が重い。長いトンネルとその間の織り成す意味合いがこんなに深く感じられる鉄道も、そうそうないだろう。そのわずかな車窓を逃さず撮る乗客。賑やかなのは構わないけど、終焉をせまる雰囲気でもあるわね。
各駅には、七福神が一つずつ置かれている。駅の守り神だ。廃線後はこれらは何処へ行ってしまうのだろう。
長い長いトンネル内で窓を開放していると、爆風が吹き込んできて寒い。多くの人が閉めている中、私はカメラさんを苛めて開けたままにしていた。トンネルも意外と楽しめる。
鉱山資料館はどこだ?
予定通り、神岡鉱山前下車。はいいけど、国道と目の前の神岡鉱業以外な〜んにもない。駅前に船津という交差点がある。どこかで見た気がした。これも後で言及する。家でるまえに、鉱山資料館の位置をおおまかな地図で見ておいた。その記憶を頼りにやや猪谷にもどるような形で歩き始める。ちなみに鉱山前で降りたのは、カメラさんと私の二人だけ。鉱山資料館に向かうのは独りだ。しかし、歩いていくうちに異変に気づいた。地図で見たときは駅から1km前後だったが、10分ほど歩いても案内板すらない。これは変だ。鉱業関係者らしい人が何人も、私をいぶかしげに見ている。どうやら観光者の歩くところではないようだ。駅前で、これと逆方向に「神岡城」を示す板があった。まず神岡城に行って、地図でも何でも得てからもう一度探すことにしよう。
元来た道を戻って、今度はしっかり案内のついた神岡城を目指し始める。と、しばらく先の方向板に、「神岡城・鉱山資料館」と併記されているではないか。なんと、資料館と城は同じ土地にあったのである。指示に従い、これも20分弱歩いて、ようやくたどり着いたのは、神岡鉱山前駅で列車を降りてから実に40分後のことであった。いま推すに、資料館は古い建物のまま、神岡鉱業敷地内から現在の地に移転されたのではなかろうか。ここには城跡のほかに郷土館があり、神岡の文化施設が集約されている。さらに歩いて5分程度のところに、「道の駅−宙(スカイ)ドーム神岡」があり、車での観光者が立ち寄りやすくなっている。家で見た地図は97年のものだから、つい最近の整備だろう。
見学料は、3施設あわせて450円。鉱山前からも飛騨神岡からも徒歩2-30分なので、バックパッカーでお越しの私は奇妙だったかな?笑顔で迎えてくださったけど。鉱山資料館は神岡鉱業の歴史、亜鉛精製技術、カミオカンデの構造、鉱石の展示など。神岡城は武具などが展示されていたけども、やはり天守に登って神岡の町を一望。ここでやっと地図が得られたが、まず上からおおよその距離をつかんでおきたいし、神岡の町全体を目に焼き付ける機会でもある。この城は、やや高い丘(夕陽ヶ丘といった)の上にあり、川沿いの盆地に集まる家々がとても小さく見える。鉱山さえなければ、これほど人口が集まることも、また急激に寂れ行くこともなかっただろうに。郷土館は旧家の保存と、山村の古い生活用具の展示である。低い梁に気をつけながら、所狭しと置かれた農具を見て廻る。匂いだけでも、当時の感触が伝わってくる。まったく他の人気のない旧家というのは、怖ささえ感じる。古い霊でもでないかと(笑。
道の駅−宙(スカイ)ドーム神岡
鉱山資料館で得た絵地図は大雑把であるけども、それをうまく読み解くと道の駅は徒歩5分程度であるとみた。高台を下って神岡市街で昼をとっても良かったが、お腹が持たない気がしたので、確実に食えそうな同施設にした。実は鉱山資料館のエントランスに、道の駅のレストランのメニューが一部広告されており、中にミニカツ丼があったのが直接の切欠とも言える。うひひ。
昨日はお蕎麦で大枚をはたいたので、今日は注意しないといけない。ミニかつは500円程度で大助かり。若干セルフ制のお食事処で、味はともかくのファストフード的なとこだけど、思い切り空腹だったので幸福な昼であった。あえてミニなのは、値段もあるけど、極限の空腹時は量が気にならないのと、この後の時間調整の為である。ご馳走様。(こっそり思ったのだけど、このカツって飛騨牛?だったらさらに幸運だねぇ)
ちなみにサブタイトルを読んでも分かるように、この施設は、ニュートリノ研究でノーベル賞を受賞した小柴氏の功績に由来するもので、お土産店の片隅にはスーパーカミオカンデに設置された光電子倍増管の実物が展示されている。
湧水の町、神岡
意外と知られていない、私も今日まで知らなかった神岡の顔である。街に5,6箇所ほど湧水がある。飛騨神岡駅まで歩きながら、一つ二つ寄ってみよう。メインストリートにある湧水は、車通りが激しいので飲むのは控えたけども、山地直送の冷たさが伝わる。ここは地図には載ってなかったから、おそらく観光用に造ったものだろう。地元の憩いの場であるかもしれない。神岡の町を貫く山田川。千歳橋に立って、しばし涼しさに浸る。郡上八幡ほど、水の町として知られていないが、小京都ならぬ「小八幡」の感が漂う。千歳橋から川を遡ると、あっけなく飛騨神岡駅。やはり小さいな、町は。駅前にも湧水がある。この「幸土泉水」という湧水は、数年前中日新聞に掲載され、地元のみならず全国各地から汲む人が訪れるのだそうだ(新聞記事が駅の掲示板にあった)。これはいい土産になる、と自分の持参してきた茶を飲み干して、水を汲んだ。
駅舎にはパーマ屋さんが入っている。既に廃線後の準備ができているのか、昔からそこに張っているのか。いずれにせよ、神岡の町から一番近い駅なのだから、もう少し盛っていてもいいと思った。寂しい。
高い高い駅のホームから、もう一度町を眺めて別れを告げる。
再び、猪谷
終わってしまいました、神岡鉄道の旅。列車に乗ればマニアが溢れていますけども、降り立った神岡の町は、まだまだ生活感に満ちておりました。鉄道はまもなく消えてしまいますが、ここで寂れてしまわぬようお祈りしています。
ほとんどの人が奥飛騨温泉口まで乗っていったらしい。後で調べたら、多少面白そうなものはあった。が、せっかくだから神岡を歩くほうが良かったと思うよ、皆さん。
記念切符を買わなかったから、何か残るものが欲しい。駅前の売店で四季数種類がセットになった絵葉書を売っている。バラでも買えるという表示を見つけたので、夏のバージョンを一枚買った。よしOK。
遠い名古屋へ明日のバイトの予約を入れて、猪谷関所館へ行く。今でも県境にある猪谷は、昔関所だった。台風の影響がなくとも、神岡鉄道や高山線鈍行の乗継駅である猪谷は、待ち時間を持て余さない為の文化施設を求められたのだろう。ちなみに、この資料館は富山市が管理している。そう、平成大合併は怖いものである。こんな山奥まで富山市なのだ。
神通川に沿ってひらかれ、米や塩、ブリなどの流通に貢献した飛騨街道。その国境に富山側(富山藩と加賀藩)が管理していた猪谷関は、通行人の身元調べのほか、流通物産に課税し藩を潤した。歴史文書、地図(模型を含む)、映像などを通して、関所の歴史が語られる。いい時間つぶしができた。
進んで戻って行って帰って
再び濃飛バス。さきほど猪谷に着くときはウトウトしていたので、方向感覚が怪しかった。角川に向けて走り出したとき、あっ、と叫びそうになった。バスは神岡鉄道に沿っているのである。読者の方、思い出して欲しい。神岡鉱山前で列車を降りたったとき、船津という交差点に見覚えがあると言ったのを。そぅ、往路でバスがここを通っていたからなのだ。ほとんどの人がさっきまで神岡鉄道に乗ってきたにもかかわらず、あまりどよめきが起こらないのは、鉱山前や神岡町を歩いていないからである。戻っていることに気づかないのだ。やがてさっき別れを告げたばかりの飛騨神岡駅をオーバークロス。やれやれ、神岡鉄道に乗ったのは何だったのやら。ここでバスに乗せてくれれば良かったのに、とか思ってしまう。バスはここで同鉄道とお別れ。やっと本気で神岡と分かれた。
同様に、高山線復旧を喜んだ高架線も神岡鉄道のものだったことが、これで分かる。騙された気分。
ノーベル街道
バスの中で、猪谷関で得たパンフレットを眺める。絵葉書を買った駅前の売店で、おつりと一緒に、「出世祈願―ぶり・ノーベル出世街道」とかかれたシールをもらった。これは、かつて飛騨街道を通して交易された越中ブリ(成長にしたがって呼び名が変わる為「出世魚」ともいわれる)と、小柴さんなどこの地域に縁のある4名のノーベル賞受賞者が出たことを合わせてPRするものなのらしい。このシールをもらって、ノーベル街道という言葉に興味を持ち、資料館でパンフレットを得たというわけだ。
神岡で研究した小柴昌俊氏、高校時代まで富山市で過ごした田中耕一氏、富山県大沢野町(現富山市)で小学時代を過ごした利根川進氏、そして小中高を高山市で過ごした白川英樹氏と、4人もの受賞者がこの地に関わりを持っている。これを越中・飛騨の豊かな自然と結びつけて、科学や文化の発信地にしようというのが、街道命名の目的のようである。なかなか面白かった。
角川―まぼろしの牛乳
往路でバスを乗り継いだときとはまた雰囲気が違って、意外と駅前は広かった。但し売店とかそんな粋なものはない。しかしこんなところでも、僅か10数分の間であっても、何か印象的なことを見つけられると旅の記憶というのは結構違ってくる。
このときは何か無性に牛乳が飲みたかった。単にのどが渇いているだけなら、自販機で清涼飲料を買えばよい。プラスで軽い空腹を満たしたかった。駅舎斜め向かいに、駄菓子屋兼食堂がある。これは往路の乗り換えの際は、停車しているバスの陰に見えなかったものだ。店は内部が真っ暗で、営業している感がちっともない。大抵の待ち人は店の前の自販で済ませてしまう。だが、私の体は諦めない。半身覗いて見えるところに、電気のついてなさそうなアイスボックスと、飲料の冷蔵庫がある。この中に、みっけたみっけた、ビン入り牛乳。2本しかないけど、あったあった。薄暗くて見難いけど、牧成舎牛乳とある。たぶん例の「まぼろしの牛乳」に相違ないと思った。ふと、奥に目を凝らすと、台所らしい部屋からお婆ちゃんがこっちを窺っている。「すいません、この牛乳が欲しいんですけど」婆ちゃんはゆっくり出てきてくれた。どれどれ、というので、冷蔵庫のガラス戸を開けてもらって超希少な牛乳瓶を手に取る。価格は75円。すげぇよ、高山市内の4分の3だよ。
早速店の前で開けて飲む。素朴な味がして旨いよ。やっぱ旅の醍醐味は、地元のビン入り牛乳を飲むこと。どこへ行っても常にやりたいと思っている。今回は特に、よそ者は誰も入らない商店に挑んで得たものだから、達成感のような格別な味だったなぁ。味だけじゃない、ビンというリサイクル可能な容器が、各地元で長年使われてきた温かみを感じさせる。ビンは食堂の手洗いで濯ぎ、自販横の空き瓶カゴに入れておく。紙製のフタは記念にとっておく。ちなみに賞味期限は4日。何月の4日だよ、とは言わず、間に合ったことにしておこう。お婆ちゃん、ありがとう。最後の1本は誰が買うんだろう?
飛騨古川
17時に古川に降り立つ旅行者はいない。家路を急ぐ学生や旅行者で賑わう古川駅。高山での乗継が一時間あるので、古川に立ち寄って時間を使うことにしたのだ。古川=高山間のみ結ぶ鈍行が、高山発の列車に15分でつないでいる。
古川はJR東海ウォーキング企画に載っている、水路と古い町並みがポイントの観光地だ。大きな緋鯉が泳ぐ水路に沿って、市民の憩いの場が続いている。日暮れ時のためか、旅行者は疎らだが、それでも生活感の方が強い水路周辺には際立って見える。観光地というよりは、駅から1時間程度で散策して帰るくらいが適当だろう。資料館も博物館もなく、商家屋敷を見学できるわけでもない。酒屋や味噌屋等の大きな古い家屋が建ち並ぶのは高山とも同じだが、水路沿い以外の道は比較的幅が開けており、区画整理された現代と町並みの古さが同居している感じだ。町並みを歩き、水路で休みを繰り返したが、どうも肩が痛んできたので、結局大半を涼しい水場で過ごした。長いこと鉄道やバスに乗ってきたので、そろそろ疲れが来た。
駅舎に隣接する物産店で、お土産に目星をつけておく。最終的に購入するのは高山でいい。早く買うと持ち運びに困る。それに高山はこの地域の中心だから、種類が豊富だろう。
お土産大失敗
と思ったのが誤りで、高山駅に戻ってまずキヲスクを覗いたら、古川で売ってたものがない。お菓子はどれを取っても面白みがないし、主人公はトチノミせんべい。栃せんは先週妹が合宿の帰り買ってきたばかり。同じものを買うわけには行かない。時間がないけど、駅真向かいのみやげ物店へ駆け込む。数点試食するも、イマイチ飛騨の味がしない。とになく迷って困って焦って狂った。発車時刻2,3分前に自棄で買ったのが味噌せんべい。最後は駆け込み乗車で間に合ったものの、悔いの残る買い物だった。結局、家では素朴な味だと好評だったんだけども。
鳥取を早朝に出て...
どんなローカルな線を乗り継いできても、夜9時過ぎに太多線、なんてことはないと思った。これは帰路の中でちょっと印象に残ったので、結びの前に記しておこう。美濃太田で太多線に乗り継ぐときに、同い年くらいの女性二人が目にとまった。大判のJR路線図を印刷したのを見ながら、行き先を検討している。どうも東北地方への冒険的な旅なのらしい。関西弁の色合いが強いので、西部出身と見た。車内で聞いていると、鳥取を朝6時に乗ってきたことが分かった。話の雰囲気から、よほどローカルムードなところを乗ってきたのらしい。鳥取県民が言うほどローカルなのだから、相当なものだろう*1。彼女らの計画というか、ここまで行けるはずだったというイメージでは、今夜は塩尻くらいが相場だったらしい。だが、今夜は多治見か中津川に泊まって、始発を待つという。美濃太田駅で、美濃加茂か多治見かどっちが大きな町か聞いていた。多治見の中央線の始発は早いから、まだ良い。でも、明日は新幹線を使わなきゃ、とか言うくらいだったら今からでも名古屋に出てMLながらを使ったほうが東京に早く着ける、と馬鹿を言いたくなるのは私。今日の行程では、岐阜が印象的だった模様。ずいぶん無茶な旅のようですけども、道中ご無事で。
しかしねぇ、一度私も中国地方一周プランを組んでみたことがあるので、彼女らのローカル行程が予想できる。おそらく、鳥取→《山陰線》→綾部→《舞鶴線》→西舞鶴→《小浜線》→敦賀→《北陸線》→米原→《東海道線》てな具合でしょう。調べてみたけども、北陸線で富山まで行って高山線で南下すると、夜9時にここにいることは不可能。大阪市内を経由したなら、もっと会話の内容が違ってくるはずで、予想されるのはこのルート。これをほぼ逆にしたのが、中国一周計画の初日で、早朝6時に出ないでも、浜坂(鳥取のやや東)に夕方5時半には着いて泊まれることになっている。しかも、ちゃんと天橋立を観光する時間がある。城之崎温泉にも寄れる(たぶん)。したがって、これを逆に上ってきても、そんな余裕もない状態で太多線ということはちょっとありえないなぁ、と感じた次第である。