南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

小説

とある講義中に書いていたもの。作者が小説と言ってるだけで、実はそんなまともな物じゃないけど、上げておく。
『くびつり(仮題)』
 秋も暮れ、舞う木の葉は霙に変わりそうなほどキンと冷え込んだ、ある夕刻である。大和田孝雄は、自宅から数キロ離れた長光寺川のほとりを歩いていた。昨年都内の中規模衣料メーカーを退職し、第二の人生を模索していた。身近なことから始めようと、地元の公園や小川を巡り、小さな日常をつくることにした。
大和田はもともと仕事人間で、休日も工場に浸ることが多かった。対する妻は、夫の退職に動ずることなく、近所の友人とともに旅行に出ている。決して夫婦仲が悪いわけではなかったが、互いに干渉しあわなかった。
長光寺川は、幅10メートル余りの小さな川である。両岸には細い木が植わり、ひしめき合う民家との間に狭い生活道が続いている。時折、堤ギリギリに物干し台やプランターがあって、まさに他人の庭を伝っているような気分になる。
堤を歩く分には風流であったが、川はそうともいえない。生活道から川面までは5mほどあり、生活廃水のせいなのか、やや汚水だ。赤や茶に染まった木の葉も、汚水の上ではあまり目立たない。澄んでいないので分からないが、川底はコンクリートで固められているようだ。小川のわりに、水深はあるらしい。誰も川に入っている気配は、ない。
秋は日の入りが早い。釣瓶が落ち、さっと辺りが暗くなって、大和田は時計を見た。5時15分前。立ち止まると、冷え込みが一層感じられる。彼は、タバコをくわえた。指先から温まってくる。
ふと気が付くと、目前の2本の木の間に、数本のビニール紐が張られている。洗濯物を干すのだろうか。こんなところにも生活感が溢れているな、と感心する。と、一番上段の一本が切れて、両端が垂れ下がっているのが目に留まった。高さはちょうど人の背丈より20-30cm上で、手を伸ばせばなんとか届く位置である。何か重いものでも干したのだろうか。しかしふつうは、重いものほど下に干す。ならば子供のいたずらだろうか。けれど、大人の背でも、さらに2-30cm高いのである。いたずら坊主の手も届くまい。大和田は様々な想像をめぐらしながら、周囲を見まわし、そして驚愕した。
張られたビニール紐の下に、小学生のものらしい白い上履きが、一足脱ぎそろえてあったのである。
―自殺だ
大和田は、直感した。
昨今は、小中学生のいじめによる自殺が急増している。文科省や地域の教育委員会に、自殺予告書や遺書を送りつけるものまで出ている。いまどきの子供は、何を考えているか分からない。民家が立ち並ぶとはいえ、普段それほど人通りのないこの川で、自殺を図ったのかもしれない。最上段の紐に自らの首をかけ、肢を川のほうに投げ出した。が、ビニール紐は切れてしまい、子供は川に落ちたのだろうか。
大和田は、遺体が浮いてきているのではないか、と薄暗くなった川面に目を凝らした。が、それらしいものは見受けられなかった。いずれにせよ、これは一大事である。自殺の痕跡なのだ。
警察に通報すべく、彼は現場状況をざっと調べた。上履きには、踵のところにT.YUU●Aと縦書きされている。●の部分だけ、擦ったように薄れていて読み取れなかった。ユウタ君なのか、ユウカさんなのか分からない。けれど、これくらいなら警察が調べれば分かることだろう。
大和田は元来から、携帯を持たぬ男である。大通りに出て電話ボックスを探そうと、その場を離れた。数十歩ほど歩いて、何気なく現場を振り返ると、40代前後の男がビニール紐の下に屈んでいた。大和田は思わず駆け寄って止めようとしたが、ぐっとこらえてさらに歩いた後、物陰から凝視していた。
男は、屈んだまま、擦り合わせるように合掌した。さらに、上履きを手に取ると、鼻先まで持ち上げ拝むような仕草をした。そして、上履きを押し頂くようにして持ったまま、立ち去っていったのである。
大和田は、目の前で起こった出来事に、やはり自殺のあったことを確信した。あの男は、自殺者の冥福を祈り、上履きを供養しに行ったのだ。この殺伐とした世の中にも、見えないところで立派な行いをしている人間がおられるものだ。彼は、さっきまで男に対して抱いていた疑念を恥ずかしく思った。
このままでも魂は成仏したに違いないが、少なくとも遺体を捜し出し、身元確認をして家族に知らせねばならない。大和田は表通りに出て、櫻木町と書かれたバス停の脇のボックスに入った。警察は、遺体捜索と身元確認は行うが、上履きを持ち去った男のことなどを詳細に聞きたいため、現場に立ち会って欲しい、と言った。大和田に異存はなかったが、帰宅が遅くなることを懸念し、妻に電話を入れた。が、妻はなんらかの用事で、電話に出なかった。一抹の不安と不満を残した。
浦和署から7-8人の警察官が櫻木町に到着したのは、通報から15分あまり後のことであった。川底を捜索する者、大和田から事情聴取する者、そして付近住民へ目撃情報などを聞き込む者の3組にわかれ、慌しく動き出した。大和田は、別段よどむこともなく、経緯を事細かに署員に伝えた。閑静な住宅地に警察が急行してきたので、いったい何事か、と、しだいに付近住民が集まり始めた。人々のささやく声が、聴取を受けている大和田の耳にも届いてくる。いまや彼は、犯人か何かのように思われているようで、ひどく焦った。
そのときであった。一人の若手署員が、古アパートから40前後と見られる男を連れて聴取の中に割り込んできた。
「あの、私です。上履きをここから持ってったのは」
男は開口一番、そう言った。
「息子のなんですよ。今朝洗ったばかりで、一日中干してあったんすよ」
「息子さんの?」大和田は、聞き返した。
「そうです。小学生の息子がいましてね。今は塾行ってるんで家にいないですが」
「えっ、自殺した子供のものじゃないんですか?」
大和田は、拍子抜けした声になっていた。
「じ、じ、自殺?とんでもない。え、まさか、そんな話になってたんですか?それで、警察の方がここに集まってらっしゃるんですか?」
今度は逆に男のほうがびっくりしている。
「参りましたね。紛れもなくうちの坊主のもんです。あいつ、月一度しか持って帰らないもんで、臭くってね。私が気合入れて洗ってやったんです。一日干しといただけで、まさか、こんな話になってるとは思いもよりませんでした」
大和田は愕然とし、そして恐縮した。その男(警察には藤田正人と名乗った)は、上履きを供養していたのではなかったのだ。いや、それどころか、子供の自殺ということがそもそも大和田の思い過ごしであった。小さな勘違いのために、閑静な住宅地を騒がせてしまった自分を恥じた。外が思いのほか寒かったので上履きに触れる前に手をすり合わせたこと、乾いた上履きがまだ臭くないか確かめたことが、自殺を念頭に置いた大和田には、合掌や奉げ持つ姿に映ってしまったのだ。
 藤田氏も大和田の勘違いを理解してくれ、遺体の捜索は打ち切りとなった。野次馬こそ集まったものの、マスコミは一切顔を見せず、大和田の大恥は町の小事件として落着した。藤田氏はこの事件を、息子の雄也君に話すのだろうか。あどけない少年は、この事件にどんな反応を示すのだろうか。大和田は、隠しようのない恥ずかしさとともに、事件で生まれた父子の触れ合いを想像しながら、すっかり暗くなった家路を急いだ。
 翌日の朝刊には、やはり、長光寺川の騒動は載っていなかった。マスコミに騒がれないで済んだ、と大和田は心底快哉した。
 ところが、である。
 その日の夕刊社会面を広げた大和田は、その目を疑った。見覚えのある名が、逮捕されていたのである。
『自宅に、5000足もの盗んだ小学生の上履きを所持していたとして、浦和市櫻木町に住む藤田正人容疑者(43)を逮捕した。浦和署の調べによると、藤田容疑者は、5年前から小学生の上履きを収集する趣味をはじめ、自宅に約5000足の盗んだ上履きを所持していた。庭やベランダなどに侵入し、女児の上履きを狙って盗んでいた。同市内では、数年前から学校や家庭などで小学生の上履きが盗まれる事件が相次いでおり、同署の地道な捜査が行われていた。昨夜、櫻木町の住宅街で川沿いの道路脇に干しておいた女児の上履きがなくなっているとの通報を受けた同署員が、現場付近で不審な行動をとっていた藤田容疑者を問いただしたところ容疑を認めた。今日午前、署員は藤田容疑者のアパートを捜索し、5000足余りの盗まれた上履きを押収した。藤田容疑者は調べに対し、「女の子の履いた靴の臭いをかぐと興奮するので集めていた」と供述している。』
 昨夜の事件を思い出し、大和田の背筋が凍った。自殺を通報する直前に目にした、藤田の行動。はじめ大和田は供養だと思ったが、実は乾いた上履きを家に取り込んだのだと主張した藤田。しかし、本当はまさに盗んでいる現場を目撃していたのだった。見えないところで立派な行いをする善人でもなく、息子をもつ父親でもなく、悪質な趣味を持つ上履き盗だったとは。
 一市民の持ち物を自殺者の遺物にみなして大恥をかいた大和田は、実は上履き盗を逮捕するきっかけになったのであった。人間万事塞翁が馬。物事は、何に転じるか分からないものである。
 これは、川辺の2本の木の間に一直線に張られた一本の蜘蛛の糸をみて、思いついたストーリーである。この物語はフィクションであり、人物および一部の地名は実在しません。
〔終〕