南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

年末緊急とーく

フセイン元大統領が本日、絞首刑に処せられました。人生で一度は直接会ってみたい人物の一人であった氏が、このような形であの世へ旅立たれるとは予想だにしなかったことであります。残念かつ遺憾に思う正午のことでありました。
さて、氏の処刑によって、アメリカの勝利はともかく、氏が敷いてきた独裁政治体制が完全に否定されることとなった。シーア派など反体制勢力や少数民族を弾圧してきたことだけが非難され、それによってつるし上げられる結果となった。氏は、処刑直前に、自分のいないイラクは無意味だ、と語った。たとえ強圧的であっても、それによって一定の秩序があるならば、一人の象徴的存在が無く混乱が絶えないよりはマシであることに、アメリカが気づかないはずは無い。日本は敗戦後も象徴としての天皇制を(アメリカによって)残されたことで、秩序を保つことに成功した。ガサが済んだら、政権は維持されることが望ましかったのだ。
大量破壊兵器を保有するのではないか、という猜疑心から起こったイラク戦争。異世界への畏怖は、悲劇を生んだ。独裁という一方向な見方が、イラクから秩序を奪った。そして、なにより強調したいのは、フセイン氏の処刑によって、氏の築いたものすべてが否定されることとなった。
新しいイラク。そのはじまりは、日本の1946年である。あの年から、戦前の思想・教育などが真っ向から否定され、それを一つでも肯定的に語ることが遮断されるようになる時代。それが今日、イラクに到来することになる。裁判は何も語られない。行為がすべて罪とみなされ、それにしたがって葬られるのみ。そして、「新しい」時代が始まる。それは、「古い」のない「新しい」時代であると言える。なぜなら、「古い」を語ることが罪なのだから。
古いものが一つ一つ分析され、吟味され、改良されることで、新しいものがスタートする。たとえ残酷で卑劣で非道に見えることであっても、新しい時代のために、様々な角度から検討されねばならない。氏の処刑はこれからのイラク社会に、一つのタブーを作ったにすぎない。そのタブーがタブーとして付きまとう限り、秩序はやってきても、そのもろさも常に付随することになる。今の日本のように。
誰も日本から学んでくれない。そのことをいつも危惧する南蛇井である。