けれども、30年前飽きるほど政治戦争をしたから市民はもう政治に興味を失っている。毛沢東を客観的に分析してよい、ということを前提に現政権は成り立っているそうである。この国に永く永く築かれてきた皇帝あるいは皇帝に匹敵する指導者の絶対性が、いまこうして失われる方向にあるということは、もしかすると我々外国人の期待に逆行するかもしれない。これはやはり思想や民族や宗教などで代替するのは、伝統的に蓄積されてきた人々の心髄に反することになり、いずれ何らかの歪が現れてくる。とくに日本人、そう思わないか?
思想の絶対性は、この国が近代に生み出した、あるいは皇帝的な存在である党や指導者の旧社会を思わせるものを打ち消すかのような役割を果たすべく考案された、結局は伝統に追随するものである。追随することは悪いことではない。国際的な重大な決定力は近現代の法律に基づかせるものだが、個々の国家における求心力はやはり何千年の歴史から受け継がれていいものである。「旧政権の全否定」を一つの動力とすることで、この大陸を文明化、近現代化に導かせ、また自らの正当性を確立させようとする。けれども、その大きな変動が見失うものも僅かではない。漢民族に限らず幾多の民族が政権を担ってきたが、それぞれの土地に住む人々の生活に大きな変化はなかった。そこに変革を与えかき回すこと、それが大陸を現代の流れに乗せる最終手段なのだと考えているのだろう。
「中華」という言葉が何だか浮いて見える。この言葉が活用しきられずに、ただただどこからともなく現れ、また消え去ってゆくような陽炎のような皇帝である。
日本がたどってきた道だからなのか、外見的に大きな発展をしたに過ぎない、格差を平均したら数十年前の日本だからなのか、まだ見えてこない将来がきっとあるに違いない。
なぁ、もう少し脱皮できないものか、発想が飛躍しないでぐるぐるして同じことばかり連ねている気がする。
ところで昨日は河南博物院を見学してきた。河南は中原を中心とする中国何千年の歴史の始まりの場所だから、そんな遺物が豊富である。そのせいか、有難いことに抗日を軸とした近現代史が影も形もなかった。また博物館にしては珍しく、歴史の経過にうるさくない。ただただ所蔵品を展示しているという印象が強い。「いま」という位置から眺めれば、本来抗日にも近代政治にもさほど熱くないこの地で、もっとも政治に関心をもち学ばなければ明るい未来がないというのは少し皮肉である。