南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

开封朋友との再会結果

今月15日から今日に至るまでの开封帰郷旅行。その最大の目的は、留学中に开封で知り合った方・お世話になった方で、开封(あるいは河南)でしか会うことのできない方々に会うこと。老师と(元)学生を除いて連絡すら取れない中で、どれだけの人に会え、またどれだけの変化が見られるか、期待と不安に満ちていた。手土産については1ヶ月ほど前から検討した。「ういろう」は既に一時帰国のとき経験者がいるので避け、関連サイトを検索した結果洋菓子が無難らしいということで、「ダイナゴン」。最も確実に会えそうな人を厳選しつつ余裕もみて、6個分用意。タバコも悩まされたがマイルドセブン8mgを3箱持ってった。タバコは完遂、「ダイナゴン」はチョコ味が1箱残り滞在最終19日の夜に自分で食った。
以下本文では再会結果ごとに、思い出を交えながら記す。時間的順序は前後する。

会えた人々

先ずは、信阳鸡蛋灌饼店の老板夫婦。毎日欠かせない朝飯であり、一番の顔なじみ。17日朝、18路のバスを苹果园で降り真っ直ぐ河大南门へ。おばさんが私と目が合い、声をあげた。会うたんびに中国語が上手くなると老板は言うけれど、まさか。鸡蛋灌饼は2年半前と変わらず2.0元。傍らに豆腐脑屋も居て食べんかというので、甘いのを頼む。豆腐脑は留学中はほとんど食べなかったが、嫌いではないし好意が嬉しかった。灌饼を焼く合間に色々話して、宿の心配までしてくれた。さっそく手土産を手渡すと、灌饼を一つおまけに焼いてくれた。朝飯は満腹、心も満足、出だし好調。(天候も朋友再会も17日を境に下降傾向となり、この灌饼にも18日はありつけず。もし开封到着を遅らせていたら、大きなチャンスを逃していただろう。)ちなみに灌饼は滞在中4つ食べ、最後の20日朝もタダにしてもらった。そうそう、この2年半で屋台の上の旗(看板)が変わった。赤地に黄の文字は曾て黄色の布地に赤い文字だったと記憶している。

その足で次に向かうは、明伦街の河大文具店。留学2年目から开封で一番お世話になる方で、一番に挨拶に行く。土産を渡し、お湯飲みながら近況を話し合う。やはり南方沿岸部に仕事を探すよう勧めてくれる。前回と同様に宿を紹介してもらえる。开封も宿泊代は上昇してきており、40~50元が相場だという。そこを一泊20元で手引きしてくれた。それから、日本から持参しなかったもの(今回はヒゲ剃り)をここで調達する。また今回は電話を借りた。短期間なので携帯電話のSIMカードを買わずに済ませたかった。老师と郑州で働く河南大卒業生にアポをとる。この文具店は常に頼れる家みたいなところだと思っている。

河南大学のキャンパスと周辺を散策してお昼。これも三日にあげず食した、通称三元弁当こと大米盒饭。遅くとも17日午前までに着きたかったのは昼飯に必ず一回これを入れる為。しかし待ち受けていたのは少し残念な結果だった。店を営んでいたのはおじさんだけで、いつも迷彩服でおかずをよそっていた息子さんと、黙々とご飯を盛っていた奥さんは見えなかった。土曜日のせいもあろうが、店内食用の席もなく随分と縮小してしまった感じ。独り菜を盛りパック済みのご飯とともに手渡す姿はどこか寂しげだった(帯走の袋入れもセルフに)。09年2月に4元となった「三元弁当」は今回、4元と5元の選択制を採用していた。4元を買ったが、おかずの内容は8割がた変わらず。蓮根と魚の甘露煮が初出。弁当屋には、自分の食べたいおかずを全て自由に選べる店もある。けれど、俺的には10種類ぐらいの菜を一度に食べれて味も全部馴染んでいるこの盒饭が最好。食後に再び店を訪れ、「相変わらず美味いね」といってマイセンを渡したが、やはりあんまり元気なかった。今後の存否が幾分心配である。

その夜、东京大夜市の伟伟へ。一瞥して見当たらなかったけど、やや奥まっていた。老板、「朋友!!」と満面の笑みで迎えてくれ、一人席へ。生の胡瓜は季節的にまだ早く代わりに酸辣白菜、炒面と啤酒1瓶を注文。敢えて「汴京啤酒」と言ったのに別メーカーのが出てきてアレッと思ったが、深く考えなかった*1。名古屋春節祭の羊肉串を本場で食えると何度も見送ったくせに、ここでも食べそびれた。勘定は約20元、いつもどおり端数は返ってきて15元に。老板にタバコを渡すと、嬉しそうな顔で「またちょくちょく来てくれよ」と。滞在時間が長ければきっとそうしている。

最後の成功例は、18日夜。明伦街の食堂で留学中の昼・夕食ローテーションの一つ、兰州拉面。好物の烩面を中心に蓋饭・蓋面など単品全メニューを食べている。とくに春節のほとんどの店が休業する時期には頼りになった。入店すると、回族の老板笑みを浮かべた。店内もさほど変わらず。ところが出てきた烩面はトマトスープではなく、拉面スープだった。これは残念だけれど、去年上海嘉定で食べているのでまぁいいや。覚えとってくれたのが嬉しかったし、本場の烩面美味かった。

会えなかった人々

日本語の独学に熱心な黄さん。留学2年目にとてもお世話になった。孫が生まれるといって郑州へ行ったきり、連絡がとれない。09年10月に来た際に一度電話したけれど繋がらなかった。奇跡もあるかと、早朝にキャンパス内のベンチに行ったりもしたが会えなかった。
东京大市场片隅の果物屋のおばさん。09年10月のときは蜜柑を2元ほど買った。これは会えなかったというよりは、偶々店頭にいなかっただけかもしれない。
文具店の阿姨の弟さん。これは河南大学南門東側に公寓が完成し、経営していた超市が移転したので店名を忘れたため。09年10月は挨拶に行ったらそのまま夕飯に招かれた。店頭にバイクがなかったので特定できず。
开封明珠旅行社の王经理。日本語堪能で気さくな方で、旅行社自体を利用したのは同学を送る際の郑州-上海の机票手配だけだが、繋がりは堅持*2。09年10月の際には顔出して日本の旅行誌を贈った。18日の午前中に解放路南段?の卧龙街を訪れたが、店舗を見つけられず。代わりに海外留学や出張のビザ手配を代行する会社の事務所を発見し、もしやと覗くも人気なし。旅行社が閉業したのか移転したのか定かではない。昨年末にAround Kaifeng China 2010という動画を検証した際には、それらしい店構えを確認している*3
「兰州拉面」の隣の「天府快餐(四川食堂)」の元気な姉さん。この店も学食以外の食事ローテの一つ。18日に昼飯で入ったら、経営者が総代わりしていた。かなり若いメンバーで営んでおり、内装も明るめ。でも大好物の宫保鸡丁饭は変わらず汁かけバージョン。これはホッとした。ちなみに宫保鸡丁は餡かけがメジャーであることを知った西门の四川食堂は09年の時点で瓦礫の山と化していたけれど、今回さらに愕然とした。西门から解放路に向かって伸びる路地の南側が全て瓦礫の山になっていたのだ。学生寮のある北側はかろうじて食堂や商店が連なり屋台も犇いていたが、この都市開発の激しさは驚きと寂しさを覚える。四川食堂のあった角地は目下集合住宅を建設中。

今回の旅行で一番残念だったのは、老师に会えなかったこと。19日の授業に出て会う予定だったが、生まれたばかりのお子さんが発熱のため急遽休講に。自身の近況報告や开封の町の変貌に対する意見など話したいこと満載だっただけに、落胆は大きかった。事前にアポが取れても、この訪問自体唐突だし、人それぞれ都合はある。切り替えて半日学生になり、初級班と中級班の授業を受けた。手土産は後日渡してもらえるよう日本人学生の一人に託した。辛い結果だけど、次回に期待しよう。

新しく会えた人々

河南大学の今年の日本人留学生。ざっと数えて7,8人というから、私が留学していた頃とは雲泥の差である。また研究生(院生)もいるらしく、随分と賑やかになったものだ。19日懐かしい教室に登校して、そのうちの4名ほどに会うことができた*4。放課後には花福で一緒に食事をし、つかの間の交流。やっぱ皆さん過去の留学生とはかなり考え方が異なり、开封のイメージも开封を訪れる人のイメージも時とともに変わっていくんだなぁと感じた。北京や上海じゃなくて开封に留学しているという意味をそれぞれ考えてほしいと思う。また、鸡蛋灌饼店のおじさんや文具店の阿姨が「日本人留学生は少なくなった」と話しており、皆あまり街に出ていないんじゃないかと。たしかに大学生と相互学習するのも大事だけれど、せっかくローカルな土地にいるんだからそこに日本人が入っていくことの面白みをお互いに味わってもみようよ。と、「今になって」思う*5。でもこうして帰ってきたくなるということは、生活空間が学外にもそれなりにあったということだよね。
文具店で紹介してもらって泊まった吉祥旅社*6の阿姨。日中はなかなか顔合わせられなかったが、暖房など色々気を配っていただいた。最終日19日の夜、福建小吃で軽く食べて戻ったところを夕飯に誘われ初めてゆっくり話をした。以前は留学生の下宿も兼ねていて、日本人や韓国人学生を世話したことなどを語ってくれた。あと2,3年もすると、この南にある溜池(阳光湖)を埋め立てて工場が建設され、旅社の辺りも緑化帯に含まれるため壊さなければならないのだという。ここにも時代の波か。ダイナゴンを退房時にお礼にと贈ったら恐縮されて、逆に自家製ケーキなどをくれた。下宿しても「家」なら、たった3泊でも「家」。

河大毕业生

実家が温泉である河南大卒業生のZさん。留学中の大半は顔を合わせる程度だったが、末期の09年2月の温泉旅行で御自宅も訪問してより帰国後も交往している。
17日電話での約束どおり18日昼に河大南门で会った。電話で11時と1時を確かめなかった私は先に昼を済ませてしまったが、改めて花福で食事。彼女は卒業後、河南省の数少ない日系大企業で日本語学科生の憧れの的である、郑州日产に就職。日産は私が留学した2007年頃に郑州へ進出、現在は中牟县にも工場を置き主にSUV車両等を生産している(TEANAなどの普通乗用車は广州らしい)。今後研修などで来日の可能性もあるといい、展望良好。実家の汝州も遠くなく帰省は容易だし、河南人の優等生コースだなと。开封へはしばしば週末に来てはショッピングを楽しむのだとか。
18日は風が強くカフェとかで過ごしたいところだが、生憎开封に喫茶店は普及してない。キャンパス内を気ままに歩きながら話す。いつしか西门を出て解放路を南へ。歩き疲れたところでお開き。Zさんはタクシーを拾って帰途に着いた。社会人になって変わった部分(特に経済的余裕)もあればそのままのところもあり、人も街も同じ。

おわりに

その他、見覚えある人々や明伦街周辺の変化などを列挙。
新郑空港への往復に利用したタクシー。車はVWのジェッタからシトロエンに変えていたが、ナンバーはそのままだった。明伦街で東から建設、工商、中国銀行の順に並んでたうちの工商が南门の公寓前に移転し、工商銀跡に哥哥蛋糕が入った。また、苹果园寄りにあった邮局河大支行*7は閉業、移転先は不明。明伦街と内环路の交差点角にいた果物屋の腹出しオヤジが消えた。西门口でずっと1.5元だった鸡蛋灌饼店がいなかった。また土地整理の影響で、西门近くにあった「名古屋」という美容室が消えた。PCがだいぶ各家庭に普及した今でも、私の通った网吧はまだ営業しているようだ。2、3度ブレーキなどを直してもらった言語障害のある自転車修理屋さんや、隣の白吉馍屋はいた。
次訪れるとき、これらの面影はどれだけ残り、どれだけ薄れているだろうか。

*1:この事情については、2012年5月27日記事「怀念 汴京啤酒」を参照のこと

*2:2年目は埼玉日中からの日本人留学生のおかげで、何かと人脈が広がった

*3:2011年12月18日記事「[オキもの] Around Kaifeng China 2010」を参照

*4:17日に文具店から一人に電話をし、18日夜には校园内で2人ほどと遭遇した

*5:自分だって引きこもりじゃなかったとは言い切れないから

*6:留学中幾度となく通った网吧の裏にある

*7:国際郵便や帰国前のEMSを利用した