先日中日新聞夕刊のコラム「紙つぶて」を読んで、強く印象に残った。インパクトや説得力というよりは、喩えの使い方や文章構成が上手く、平易で分かりやすい。中日新聞のHP上には「紙つぶて」のアーカイブがないので、図書館で複写してきたものを原文通り入力した。
傘 中山 千夏
柳の下で蛙を見つめる小野道風。花札にもある図だ。その、さしている番傘は、私が持っている洋傘と、ほとんど変わらない。傘という道具は、まず、発明されてから今日まで、基本的に変わりないのだ。
ところが、紫式部が源氏物語を書くのに愛用した道具と、私がこれを書いている道具とは、原理から形から使い方までまったく違う。
筆も紙も使わずに、キーボードを打って文を作り、古人が見たら腰を抜かすに違いない3Dゲームで遊び、外国の友人とまでメールで交流し、さて、タブレットとガラケーを携えた私は、小野道風の傘と似たりよったりの傘をさして、雨のなかへ出かけていく。
これぞ、現代科学の限界を見事に表す現実だろう。
大雑把に言って、文房具は、人間だけに関係する道具、終始、人間が管理できる道具だ。だから人間の知見が増しさえすれば、いくらでも進歩する。
しかし傘は、雨という自然とかかわる道具である。自然とかかわったとたんに、科学技術は原始時代に引き戻される。雨を避けるのに、傘やワイパーなど、物理的に、しかも不満足に遮断する古来の技術しか、実用できないでいる。
これを思えば、深く自然とかかわる原子力発電が、人類史上最大級の暴挙であることは、火を見るより明らかではないか。原発は絶対ダメ、傘を見るたびそう確信する。紙つぶて 2014.1.25
さすが作家、平易で面白い流れで人間の道具とのかかわりを見抜き説いた。中学や高校の国語あるいは日本語検定の試験問題に使えるのじゃないかと思う。私は大学受験のときに現代文の読み込みを徹底的にやったせいか、こういう文章の完成度にフッと魅了されることがある。新聞では事件や事故の記事より美的な文章を求めていたりする。