(平原編2:濮阳再訪よりつづく)
昨夜登記したところへ退房しに行ったら、家族らしい男性が「マネー」と押金を返し「バイバイ」。少し拍子抜けした。路地口には朝飯屋台が幾つか出ていたが観光のスタートを切ってしまう。县方面へ行きそうな公交3路を行き着くところまで乗ってみよう。昨晩往復した距離を歩かずに済むだけでも御の字だ。郊外路線の3路は一律2元であるのを知らずに、往路は1元で隠し通してしまう。本来は京开大道一直線だが、鉄路付近で大工事のため西方に大きく迂回している。貨物駅でしかないのに火车站という地名や停留所名が定着しているのは不思議。都合よく終点は南环路との交点、南关桥口。张辉公园はここから東へ約1kmだ。ここらはまだまだ濮阳市の辺境地帯で沿道両側とも緑が多い。
张辉公园
公園自体は入場無料。車両は進入規制される。園内は大きく3つに分かれる。
舜山
北東部に造られた小山。南側から登る。登り口に、小さな遊園と小卖部があって傍らに空揚げみたいなのの寂しげな屋台がいた。空腹は覚えるものの、きちんとした食べ物よりは乳飲料が欲しかった。
見晴らしはよく、西に挥公陵、南に舜帝宫が望める。北側には整備中?のプールが見える。でもこの山自体が挥公の陵墓ではないかと。
挥公陵
挥公こと张挥は黄帝の子孫で、弓矢を発明・改良して製造に貢献したことから、ときの皇帝颛顼から「弓の長」すなわち張(张Zhang)の姓を賜った。これが張姓の始まり(张姓始祖)とされる。死後帝丘(現在の濮阳县)に葬られたことから、この地を張姓発祥の地としている。
入場料は舜帝宫と合わせて25元。広大な広場の先に小さく挥公像と大殿が見える。入場口と殿内で番をしている阿姨たちも、大声だけじゃ通じ合えないのでは(笑。
弓を携えた挥公。背後の床面にペンキで「張」の大書あり。
大殿に入るや否や、巨像の前に屯していた阿姨たちがササーッと散る。滅多に遊客など来ないので動画など観て遊んでいる。
弓矢の始祖でもある挥公の生い立ちや功績の壁画を眺め、以後現代に至る張姓の偉人を銅像とともに拝する。张旭や张仲景など知った顔もあったが、張飛は居なかった様に思う。左手にも展示室があったが、蒸し暑くて即行退散した。
舜帝宫
舜(帝)(前?年-前2037年)は、先出の黄帝や颛顼と並ぶ五帝の一人。三皇五帝は、秦の始皇帝誕生以前の古代中国における神話伝説時代の帝王。したがって史的存在の確証もないわけだが、儒教では聖人として崇められている。その出身が一説では河南省濮阳であるらしい*1。
早くに実母を亡くし、家事に勤しんだ。父と再婚相手、その間に生まれた子から執拗に迫害されるも上手く難を逃れ、尚も父に孝を尽くした。その人間が買われて堯(帝)に登用され、政治で力を発揮した。河南では禹王の話は各地で有名だが、この禹を登用して黄河の氾濫を鎮めさせたのは舜帝である。(以上、百度百科とWikipedia要約)
この門からは入れない。正面口に達するのに挥公陵から南へ結構歩かされた。つまり宮殿の南北は長い。
この象の意味が今一つ分からない。舜帝を迫害した異母兄弟を意味するとは思えない。
大門の裏側を眺め登れそうだと思っていると、モギリの女性が私を呼び大殿を開けてくれた。内部の絵図には、先のWikipediaにもあるように、父に井戸さらいを命ぜられて生き埋めにされそうになるも横穴を掘って隣の井戸へ脱出したエピソードが描かれていたのを思い出す。大殿から北門まではただの空き地だ。今後新たに復元する予定で、およそ敷地に収まりきらなさそうな建造物の計画図があった。
北門はなぜか聚義廰(『水滸伝』における梁山泊の議事堂)。その櫓下では少年たちが少林拳法の武芸を磨いている。門を抜けると、舜山が聳えている。これにて終了。
門前の飲料屋に酸牛奶とか营养快线はなくファンタオレンジで我慢する。
さらば濮阳
午後の観光地は鹤壁(Hebi)浚县(Xunxian)。安阳滑县を軸にして往復し、滑县に泊まるのが理想だ*2。でも、既知のように滑县は通常「道口(Daokou)」の名で通っている*3。これにどうも躊躇が生じて、直接浚县に渡ろうと思った。浚の発音をずっとJunだと思い込み*4、尚且つ四声を誤魔化しても何故かちゃんと切符を買えた。
濮阳の入口は市长途站、出口は飞龙站と区別したほうが心理的にしっくりするらしい。6年前と同様、飞龙站からの旅立ち。著しく発展しながらも好印象を残してくれた濮阳。さらば、いつかまた会おうぞ。
(平原編4:鹤壁(Hebi)浚县(Xunxian)浮丘山へつづく)
(map:濮阳县挥公陵)