南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

白馬の禍

Wikipediaのとある選り抜き記事から、隋、後梁南朝)と見ていたら、ふと「开封を都とする後梁があったよな?」
それは南朝後梁と区別して、後梁(朱梁)とも表される五代十国時代の一国(907-923年)。朱梁の朱は、建国した首領朱全忠と後継一族を示す。
ja.wikipedia.org
黄巣の乱で反乱軍にいた朱全忠は唐軍に寝返って黄巣軍を討ち、出世した。しかし唐は嘗ての隆盛を失っており、朱全忠は唐を掌握しながら自分の国に変えていった。都を長安から、洛阳、そして後梁を建てるときは开封へと遷した。当時开封は黄河と大運河の交わる物流の中心地で、長安より利便性が高かった。後述する朱全忠の残虐性や行状から後世の評価は高くないが、当時の地の利を生かして長安から开封へと中心地を移させた一点に関しては、次の宋朝へ受け継がれる功績だと思う。まぁ、さておき、
唐朝末期には皇帝を傀儡にし一族とともに殺害、また官僚らをも粛清した。

天祐2年(905年)、腹心の李振・蒋玄暉らが唐の高官らを黄河へ沈めるべきと建言すると、朱全忠は裴枢・独孤損・崔遠・王溥・趙崇ら唐の高官30余人を河南の県尉などの下級地方官に一斉に左遷した。そして、彼らが任地に向かわせる途中の白馬駅で彼らを処刑して、その遺体を黄河に遺棄した(「白馬の禍」)。
朱全忠 - Wikipedia引用)

白馬の禍 - Wikipedia
現場となった白馬駅は、滑州(現在の河南省安阳市滑县の境)とされている。白馬というと洛阳白马寺をすぐに想起してしまうがな。さっそく安阳・滑县の境界一周を地図で参照してみるも、それらしい地名はない。白马驿(yi)を検索すると、現在の山西省黎城县と出る。滑县とは全く関係のない土地で怪しむも、不意にピンとくるものがあった。安阳滑县に隣接する鹤壁浚县、その古名をたしか黎阳といったはずだ*1北宋時代に山西の現在地へ移されたという黎城は、黎阳のことではないか? そう考えて、浚县 白马驿で検索すると、出た、出た。

浚县善堂镇迎阳铺村。迎阳铺村位于白马坡北5公里,旧名白马驿,历史上属白马县,1950年改属浚县。
朱中月《白马寻根》寻根代表团来到黄氏南迁地:浚县善堂迎阳铺村|白马寻根|白马县|浚县_新浪新闻

迎阳铺村は、滑县と浚县各县城より北東へ10km内外といった辺りか。愛用の地図でも善堂镇までは確認できる。かつて黄河の河道は現在の滑县と浚县の境にあり、白馬駅(白马驿)は渡河地点でもあった。尚、この両县境界一帯には白马や白のつく地名が集中している。古黄河も時代により河道を微妙に変え、同じような渡し場がいくつも散在していたのかも。

いやぁ、浚县の黎阳を覚えてたおかげで一気に解明して良かった。まぁ粛清現場なんて解明して、あまり心地よいものでもないが。

*1:平原編4:鹤壁(Hebi)浚县(Xunxian)浮丘山 - 南蛇井総本氣で、黎阳仓遗址という史跡を訪れている