南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

一生懸命走ろうぜ。

一つには、長旅の後の鬱。
二つには、衆院選前後の失望か何か。
三つには、個人的な人間関係と自分の将来像を取り巻くハテナ。
とにかく、南蛇井は沈んでいる。このまま、講義を聴きに行く気にはなれない。もちろん聴かなくても、それはそれで行動だ。だが、それができるだけの度胸が無いように作られ、操作されてきたのが、南蛇井なのだ。このまま有耶無耶でいればいるほど、意気消沈していくだろう。文にならぬ文をぶちまけて、克服したい。大学入学時から、これで発散してきたのだから。

先日、爆音を棚引かせ、赤信号の交差点に進入する単車があった。しかも、侵入するために、わざわざ一部歩道を走行してきた奴だ。奴は、交差点進入時にもたついた。正当な横断車両との衝突を避けていた。それでも信号無視を決行した。その際に、他車両は一台も信号無視を阻止しようとはせず、決行を見守り、黙認した。
この信号無視と爆音という暴力行為を、誰の責任とするんだろう。警察の取り締まりか、暴走少年のせいか、それとも彼を教育した学校か両親か、もしや単車改造を黙認あるいは援助した技師か、はては暴走族のリーダーか面倒見のヤクザか。それとも仕方がない、とあきらめるんだろうか。あきらめるんなら、自分を呆れてくれ。俺はその場に居た全員が嘆かわしい。勿論俺もだ。俺は行動したが、未遂に終わった。
もたつく単車に突撃し、成功すれば衝突して名誉の負傷と相成ったものを、俺は一瞬怯えた。それでも奴のけつを押すのには多少役立ったかもしれない。出遅れたら俺を撥ねることになるからだ。俺は正確には信号無視、あるいは衝突を援助したことになる。否、後者だ。俺は衝突を最も望んでいる。
この世で最も卑劣な奴らは、衝突を恐れる奴だ。特攻隊は何かを愛して突き進んでいく。だから、もたつく単車は本心で突き進む気の無いことを示した。信号無視に対して、黙認し、ぶつかって自分の車が傷つけられることや少年が跳ねられることを恐れた。あるいは少年の罵声や武器での暴力で事故や事件に発展することを恐れた。そして、どこかで警察に委ねれば、補導にいたるだろうと考えた。
暴走少年諸君!チームを愛し、自機を愛し、アスファルトの続く限り突き進むことを、再び先輩から学んで欲しい。
暴走少年に怯え非行を見下す大人たち!彼らを認めて欲しい。そして、心から彼らにアタックして欲しい。警察は少年を教育しない。われわれを守りはするが、彼らを更正しはしない。つまり一般が恐れるものを取り除くだけだ。恐れるということは、異質とみなし、排除することだ。彼らを排斥してはならない。国土に我らある限り、運命共同体なのだから。

まず、こんなネタからはじめてみた。序章に過ぎない。キーワードは特攻だ。そこには、目前に在るものを愛する心と、事故の背後に在るものを愛する心がある。つまり、一般市民にとって大切なのはまず家族や居住地域の安全だ。なのに、暴走を黙認するのが愛情行為なのだとしたら、それは矛盾してないか。アタックしてやり、中途半端でない我らの心を知らしめんと試みるのが愛情の直球だと思う。