南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

柘植まさじの声が聴きたい

期日前投票に行って、選挙区は山本保、比例代表は公明党に投じてきた。私は知人との義理を大切にする男だからね。こういうことを明言すると、なんだ君は言ってることとやってることが違うじゃないか、とご批判を受けるかもしれない。所詮こんな個人的なブログというのは、メディアが着目するわけでもなく、多少文才があるからといって読者が殺到するわけでもない。だから無責任に他愛もないことをダダッと書いて自己満足に浸っておれば良い。というところに無知芸術論的な境地があるのであって、本人にはなんの背骨もないんだな、と感じてもらえばそれでいいのだ。こんな風に冗談ですら4行にも5行にもなってしまうから物書きというは面白くていい。蛇足だが、南蛇井は国政選挙では相当な民主党信者且つ小沢一郎崇拝者ですので。
今日は維新政党に軸を置いて、前半ルポ的に行っていつもの論で締めてしまおうと思う。この党に関してはある程度暖めていた危惧があったが、これを発信するにはどうも資料というか材料が乏しかった。一応早朝の柘植候補の政見は聞いたんだけれど、これで語るにはやや危ういものがあったので、暇もなかったがとにかく書かないでいた。
今日は選挙戦の最終日。候補の声が聴ける最後のチャンスだ、ということで、人の集まりやすい栄と名駅前に網を張ってみた。愛知選挙区の候補者のうち、実際にこのポイントで捕まったのは民主谷岡氏、公明山本氏(以上栄付近)、自民鈴木氏(名駅)の3名だけ。鈴木政二の声を聴きながら気づいたが、どうも名古屋を地元とする候補者にしか遭遇できていない。共産八田氏は岡崎だし、兵藤氏は知多だし、柘植は田原だ。つまり最終日は大きく動かず、自分の足元に重点を置こうということらしい。これでは柘植の声はまず無理だと考え、金山駅前には足を伸ばさないことにした。因みに鈴木氏が名駅西で街頭演説をしている道挟んで向かい側に、「NIKKEI」のパスつけた人間が立っていた。今回ルポ的にしようと思ったのは、このシーンによるもの。
さて、遭遇できる候補者が限定されていることに気づいた南蛇井は、新風打破を彩るインプットを得られずに退却に移ろうとしていた。久屋大通公園では堀川の生き物を大切にしよう、みたいなイベントがあって、ちょっとお祭り化している。気晴らしにこの辺でクレープでも食って帰ろうかと思った矢先だった。100m道路を一台の街宣カーが南下していった。目の端を掠めただけですぐに体が反応した。「維新政党・新風」である。人ごみも信号も目に入らない。一気に追いかける。
車が右折したので、西に追えば追っつけるだろうと思ったら、意外なところに停車していた。栄交差点の北西角、東向かいには野外コンサート場があって、若者が集中している。公明山本氏の宣伝カーとは1ブロックしか離れていない。これは上手いところを狙ったと思った。これは街宣カーに絶好なだけでなく、わしにとって絶好のシチュエーションだ。
今回の選挙に限らず、参議院選挙というのは小規模政党の晴れの舞台だとされる。新風、女性党共生新党など、とくに比例代表を活用したミニ政党・政治団体が目立つ。中でも新風は比例代表名簿を真っ先に提出し、同党代表を筆頭に3名の候補者を並べる。学生時代からある程度見聞きしている新風だからこそ、今回の選挙でこの党が着眼されては危険だと思った。かつては何となく右派だな、程度に眺めていたが、ここ2年ほど自分のポリシー的なものが固まってきてから、右傾というものを単純に現代の国民に流布させることの危険性に気づいた。尤も、同党がその辺を知っていて利用しているのか、まだその影響力に気づかず闇雲に街宣しているだけなのか、定かではない。どっちかというと前者のようには思える。
現代の有権者の中でも、最も棄権率の高いのが20代〜30代である。ただ若いから、というのもあるが、30代ともなるとさすがにそれでは片付けがたい。この30代というのは、日本の一つの節目をリアルに被ってしまい、その影響で物事に対して冷めてしまった世代だと思う。いわゆる日本が目覚しい経済成長から少し外れ、政治的にも社会的にも若干おかしくなってきた時代に育った。これは私自身のネタじゃなくて、大学2年次に受講した日本政治論の受け売りというか、重宝して持論に活用し続けているのだが、1970〜80年代、社会的に不安定な事件が続発している。いわゆる浅間山荘事件のようなテロだとか、新興宗教の誕生、暴走族の出現などはこの時期のものだし、北朝鮮による拉致事件だってこの頃に起きている。拉致は関係ないというかもしれないが、社会的に不安だから当時の警察の手が回りきらなかったのじゃないのか?だから近年まで埋もれた状態だったのじゃなかろうか、と。でもその頃の30代は青少年なのであって、こういった事件や事象の主人公ではなかった。そして彼らが社会に出るとき、バブル崩壊と就職難が襲った。フリーターが出現し、派遣会社が飛躍する。先日、フルキャストが業務管理費の返還に応じると発表したが、これが1996年10月まで遡って請求できるという。この頃から既に派遣会社は暗躍していた。ところが政府は、社会人になりきれなかった当時の若者に対して救済しないばかりか、20余もの政党を作っては潰す大混乱を起こしていた。与党自民と野党社会の構図は崩れ、両党が連立するという訳の分からない事態にまでなった。そこに阪神淡路大震災地下鉄サリン事件とさらなる不安が襲う。ここまでの一連の時代の変化によって、今の30代の多くに、既存大政党に対する冷め切った見方、被害者意識が巣くうようになった。また、彼らはインターネットを大々的に活用し始めた最初の世代であり、その意味でも平成憤青文化(ex.2ちゃんねる)を花開かせた連中だといえる。近年、中国や韓国でネットを利用した反社会的、反政府的な動きが日本を触発するように目立ってきている。中国でのこれらは「憤青」と呼ばれるが、これが既に90年代から日本で出現していたものであることを、先回の「とーく」と上述によってあらためて指摘しておく。
それから補足的に、今の20代はどうなのかというと、これは物心つくころには時代が変わりきってしまっていて、もうその流れに順応するしかなくなっていた。わしみたいに昭和への回帰だとか言ってる変人は置いとけば、大抵の人間は迷うことなく染め上げられた。けれど、ここでは偏狭な競争社会とそれに伴う陰湿な蔑視・攻撃があって、それらの被害者が過激な行動をとったりして、憤青現象を盛り上げているのが事実だ。こういうのは未成年世代もどんどん悪化させていっているから、これは止められない。やはり自分自身に素直で居られない時代というのが一番怖い。変人が変人であらんとすることも、別の側面では変人でいようとする過激な言動によって身を固めているとも言えるから、これも被害者意識の一種であるということは前々から自覚している。ただその自覚がない者ほど、容易く右傾に流されやすいことは確かではないか。これも持論擁護か、ぇぇい。
で、こういう世代をうまく刺激することで、支持率をあげようというのが新風である。もう何だか確信に近く表現してしまったな。ともかく、もう一度栄の街宣現場に戻って、録音テープらしい演説を聴いてみよう。『朝鮮人は戦前の強制連行で連れてこられたのではない。自主的に日本に来たのだ。そして戦後も帰国可能だったのに居座った』―うむ、これは先回のとーくで扱ったばかりだね。日本政府の作為的な人的資源の移動であって、確かに「自主」ではあるけれど、裏があるわけだから「やむを得ない」と表現しないといけない。『日本人はよくパチンコへ行く。そのパチンコ店は朝鮮人が経営している。パチンコで金を摩ると消費者金融で金を借りる。その消費者金融を朝鮮人が経営している。消費者金融では足らなくなると、今度はヤミ金融に走る。そのヤミ金融も朝鮮人がやっている。お金がないから風俗で働こうとする。その風俗店も朝鮮人が経営している。そうやって日本人から吸い取った金を北朝鮮に流している』―とくに若い世代にとって身近なところから例を出してきて、そこに敵をみいだしその敵にやられていることを述べる。もしかすると唯一の楽しみかもしれない、あるいは唯一の金稼ぎの場かもしれないところに、実は敵が居て自分が被害者であった。その自覚が敵をやっつけなければいけない、追放しなければいけないというような、どこかゲーム感覚的な錯覚を起こさせる。『アジアには50何カ国、60カ国も国があるのに、日本をダメだダメだと言っている国は中国、韓国、北朝鮮しかない』―それは批判を刺激に転換できない硬直状態のあなた方がダメなのであって、この辺は偉大な先人を継承していないな、と感じる。即ち、頭を下げさせ敬わせるより、多少の攻撃をものともせずリードする力が大切なのじゃないかと。『強大で堂々とした国』―これを言うならば、ただ日本の誇りを国民および周辺諸国に知らしめるにとどまらず、前述のリーダーシップのほうを強化すべきだろ。『自虐史観にとらわれ、過去を謝罪し続ける必要はない』―これは半分は同調するよ。ただ、これまで戦後昭和という時代、戦争の惨劇を周辺アジア諸国に及ぼした加害意識と、軍部によって戦争へと導かれた被害意識、米軍による空襲や原爆投下などへの被害意識によって支配されてきた。それが平成という時代、情報が錯乱する中でタブーにメスを入れることを誇りとするに過ぎない連中が、都合のいい部分だけを切り出して激論を展開し始めた。この中では、単に従来の論調でない、ということだけが着目され、その本質には留意されないということを同党が理解しているかどうか。これが最大の危惧なのだ。当時の戦艦の強大さ、特攻の美しさをことさらに強調した柘植氏の政見。私は「それはあんたの趣味だろ」で片付けるが、今の若い世代にとって戦争は本当の自分の場、美しさのある場だと感じている。この辺だけをうまく擽る広報は、簡単に功を奏してしまう。事実を知らない問題だからこそ、その美しさ・格好よさだけが強調され、また当時日本に占領されていた国々が今、対等に或いは寧ろ日本より強い態度を見せていることが指摘されれば、容易に飛びついてしまうほど平成人は軟弱なのである。
ルポ分も含めたおかげでひどく長くなってしまったが、書きたいことは最後まで発しておきたい。たしかに何度も馬鹿の一つ覚えのように、「昭和から平成へ、社会風潮が根元から変化し、タブーに切り込まれるようになった」と述べてきている。が、注意していただきたい。ここには2つの隠された欠点がある。一つ目は、移り変わったように見える2つの傾向が、実は両方とも被害者意識に根ざしているに過ぎないということ。戦後日本の被害者意識については上述した。現代の被害者意識はもっと多様化している。そこに風化した歴史問題を重ね合わせて、敵を懐古することであらたな被害妄想を生み出している。『自主的で独立した、堂々とした国にするために改憲し、核武装を含めた国防を考える』とは、いかにも積極的な表現だが、『勝った国から憲法を押し付けられ、自らのスタンダードを戦争裁判で否定・断罪され、結局は欧米のやり方で国土は焼かれ、国民は殺された。日本の被支配地域が戦勝国となって日本の利益・財産を吸い取ってしまう。挙句の果てに、その成金戦勝民が今、日本を攻めようとしている』どっからどうみても被害者妄想なのだ。何も斬新なメス入れをしているのではない。戦前・戦中時代に誇りを見出すのは結構だけども、そこで受けた不利益をも真摯に受け止めず、その被害を相手の被害より過大解釈して、敵を非難する。これが今の風潮なのだ。結構イジメに近いものをもっている。この辺りに感づき始めたのは、大学3年のゼミだ。同学の春学期レポート発表が、当時の私と同じ憤青の傾向を帯びていたので熱心に拝聴していたのだが、日本の原爆被災と南京大虐殺を比較する雰囲気だったのでこれは斬ってやらねばと思った。即ち、彼は両事件を同じ非戦闘員の被害だと考えている。だから比較して、中国が死者数について偽っている、となるのだ。だが、日本は違う。政府の強制とはいえ、それを遂行する議員を男子普通選挙で選んだ国民が、すべて戦闘員として竹やりや防火バケツで戦っていた国なのだ。将来は堂々と「将校や従軍看護婦になる」と夢を掲げ、少国民として召集令状を待っていた子供たち。国際法(で戦闘員と非戦闘員の区別)を学んで来い、と私の暴論は教授に斬られたが、一部の市民がゲリラ的に戦っている中国と、国家総動員で半強制的に全国民が戦争に加担している日本とで、その被害が比較できるだろうか。そんな比較は何の意味もないし、戦勝国にやられた、というつまらぬ意識が芽生えるだけだ。やるなら、もっと積極的に肯定して欲しい。ほかにも、「歴史の流れから、欧米と戦わされる羽目になった。自ら起こそうとして起こした戦争じゃない」とか、こんな論調で誇りを持てというのか。
明治維新、日本は欧米から近代を学び、それを応用することでアジアの先頭に立った。それを自覚した日本は、ジャパニーズスタンダードによって台湾や朝鮮を筆頭にアジアリードを開始した。しかし当然ながら日本自身も成長する上で、国内の資源では賄えない部分が出てくる。当時はまだ対等に近代的な国同士の貿易をする相手ではなかった周辺アジア諸地域に、その負担を求めた。資源と引き換えに、それら地域を支配する英仏など欧米列強からの独立を保障することでアジアリードを確固たるものにしようとした。また、欧米は常に近代を伝授する者、日本は伝授される者という、支配・被支配関係を打破し、自らの成長ぶりを誇示しようとする狙いもあって、摩擦から衝突への道を敢えて突き進んだ。尤も国内的には恐慌などの影響もあって、国民の多くが大きな夢を求めていたことが、戦争を後押しし、開拓団などの進出につながっている。いずれにせよ、日本が半世紀足らずで築いてきた自らの基準が、大東亜戦争で試されることになった。自らの理想、すなわち大東亜共栄圏が、その行動によって全球に証明されるときが来た。ところが、この段階になって軍部の暴走が目立った。ただただ戦争の勝者になることに固執し、リードされる国が将来見習えないような残虐行為に走ることとなる。暴走は、乏しい国内資源事情を無視し、国民統制を活かして鼓舞させることで繕った。それがさらなる戦地での非道につながった。戦前という時代は1930年代を節目に、上記のように理想をもとにリードできない、もどかしいというか不本意な状況に変化してしまった。「〜してしまった」調で書くと自虐的に聞こえるが、これらは全て先人たちの懸命な生き様であり、理想の崩壊を自ら感じながらも必死になって戦争というストーリーだけは守り続けようとした姿なのだ。その中で起こした様々な摩擦が各地での戦線であり、本土での空襲や原爆投下、神風特攻隊なのだ。すべて先人の偉大なる行動と経験であり、これを加害・被害に分類することが現代人の愚行なのだということ。これに全然気づかないで、美しい部分を取り出しつつ、被害をことさらに過大評価する連中。彼らとて、戦争から何も学んではいないし、戦争を知っているとすらいえない。
一つ目が長くなったが、もうひとつの欠点は、新風潮がただ単に過激にメスを入れることにのみ固執しているということ。政府や左翼を針で擽ることを快楽としているに過ぎない。メスを入れるだけでなく、その部分を新たな解釈によって導こうとするほどの独特さが感じられない。面白半分の攻撃性にのみ縋っているだけなのだ。南蛇井は、彼らによって入れられたメスを楽しんではいるが、同時にそれを彼らとは異なる解釈に発展させるよう心がけている。こういうのは研究者にお任せして、自らの優越感を得られる情報にだけ過剰に反応している若き憤青どもをも、わしは斬りたい。
かさねて申し上げる。維新政党・新風は、正常なポリシーの持ち主ではない。平成の風潮に上手く乗ずることが出来るだけの政治団体である。安易な気持ちで彼らに一票を投じてはならない。彼らはメスを入れたらすぐ引き抜いて、次のポイントを探しているに過ぎないのだから。
後記
あー、6000字突破だよ。十分レポートにして出せるよ。寧ろ字数オーバーだよ。期末最大でも5000字程度って言われるもんな。ぐへ。所要時間、約12時間。