南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

(続)このクソ蒸し暑い日に

(お断り)このとーくは去る7月5日の記事に後日追記しようと考えていたところstarを戴いてしまい、趣旨を変えるわけにはいかぬと別記事として再編したものである。5日の呟きはアレはアレで味があるかな、と。

あらためて、

いたづらに通報された現場へ集結し、消防服纏って空しく詳報を待つ救命戦士の面々を目の当たりにすると、全く嘆かわしくやるせない世の中だと。

でもそれらを包括し背負っているのが国家であり、市民一人一人もやはり共同体の構成員であることを負っているのだ。という主張はこれまでも衝撃的な事件が起きるたびに繰り返し言ってきた。憲法というのはその共同体の超基本的大綱なのだから、いわゆる善人であろうと悪人であろうと何人も自由に活用できるルールでなければならない。一部の人間だけが有利に使えるような改憲は許されない。更正しなければならないのは悪人だけとは限らない。善人も、そして社会全体もまた改めなければならない部分があるから、世の中に理不尽な事象が起きるのだ。それを一部の偽善者の定めるルールが支配するようになれば、如何なる更正の余地も失する。
戦後平和憲法の下でこれだけ思想や人格が多様化してしまった日本に、もはや新しい強制力を働かせるのは難しい。それでも多民族の巨大大陸国家で人民が自由奔放に生きる中国を見れば、日本は一筋縄で操れる固有の素質と大成の可能性を秘めている。だから場合によっては一筋縄で締めてってもいいんじゃないか。ダメか

いま巷で話題になっている96条や9条の改憲論議とは程遠い話かもしれない。でも些細な改憲を見過ごしていくと、いずれはこういう次元の話になってくるんじゃないかと思う。
夕刻に憂国、なんつって