南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

平和は比較の対象

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 今朝、ラジオで「いのちの対話」というのを放送していた。今日は高知からの生放送だということである。近頃はゼミネタばかりだったので、身近な話題は久しく感じる。今年は戦後60年を迎えるということで、戦争と平和が中心テーマとなっている。運良く特攻から帰還した者、満州開拓団にいた者、様々な形で終戦を迎え、日本を復興と発展に導いた人々。そしてゲストや平和活動家が戦争と平和を語る。筆者のような「戦争を知らない世代」が語れることが何かは分からないが、放送で印象に残った言葉として次のものがある。『戦争を無くしていく方法として、子供たちに「(私の)この手はすごいね。この足もすごいね。君の手もすごいね。」と教えること』。お互いが同じように持っている物を、互いに尊重しあうこと。勿論、何らかの理由で手や足を持たない人々も居る。しかし、人間である限り心がある。比較できない個々の心をお互いに認め合うことで、いま蔑まれ苦しむ人々も通じ合うことができる。ところで、先の引用はもう一つの意味を含んでいる。それは自分を尊重することだ。筆者は寧ろこの意味で感動した。まず自分を確認したうえで、相手を見る。それは決して相手に欠けているものでなく、互いに持っている物だが、自己という基盤を確立している。国家でいえば、国土や国民(民族)を愛し、その歴史を確認することで、他国の国土や国民を尊重し、侵略や横暴の意図を失くせるのではないか。まさに、「自成らずして他を愛せず」なのだ。
 ただし、凶刃的に言うならば、平和は戦争や不幸と対照に当たる言葉であり、仮にこの世から戦争が滅亡したとき平和という言葉も同時に滅びる。しかし、この世から戦争が滅亡することはありえない。何故なら、戦争が如何に恐怖をもたらし、人々の心を傷つけ、その生涯をも左右してしまうものだということを、認識できない世代が必ず後世に生まれてくるからである。そのとき、再び平和は戦争と戦わねばならない。従って、平和は戦争と対照し続ける対象であり、恒久の平和は戦争なしには成立し得ないのだ。
結:平和は永遠のレジスタンスなのか。【2005/07/18/AM】