まず、話を始める前に話。ほんねとーくを一日2個以上やることは、欲張りですか?それとも、やれるときに3つでも4つでも噛まして、来週は1件も無し、なんて手法も有効ですか?実は先の酸味一体の話は、アジア政治論の講義中に午後のゼミを再予習していたときに、ある中国の政治体制に関する小島朋之先生(図書館で著作を見たことがあるので馴染みっぽく書いてみた)の文章を長々と読んでいたら、昨日のとーくに違和感を感じたためで、要は突発的なんであります。
なんだか、ヤフー検索でも「亀井静香(スペース)アホ」で関連ページが検索できるほど、知れ渡ってしまったようであります。南蛇井がこの記事を読んだのは、勿論我ヵ家が定期的に購読している中日新聞の夕刊第二面でありますが、これを読んで思考回路を作動させたのは今朝の11時(朝か?)を廻っていたのですから、実に半日は経過していますね、反日。
何から語ったらいいんだろうか。とりあえず、彼の論点に同感。
まず、古い政治家の特徴として、既得権の存在をぶっ壊されることへの反発。それは、議員年金廃止や族議員の蔓延る機関を解体して、民営化など効率性のあるものへ持ち込むことや、国会議員に限らず、民間人や経済界のスターを政界に取り入れること。それは氏らの、政治家が国民に政策を施してあげる、という理念に基づくわけね。地方や自分の選挙区への利益流通を齎すことが一つの問題点になっているということはある。少なくとも自己利益じゃないわけだ、元来は。自己への利益は、政策施行によって政治家が敬われるということだろうか?
今回の亀井氏の発言に対しては、この上記の面に関して、氏を嘲笑し、小泉政策を擁護するかもしれない。氏は、民主主義の崩壊についても語る。これは、既得権を奪われた古株の僻みとか、足掻きと見なすかもしれない。それだけ、この世はモノを言うことが自由になり、政治家だけが国家の動きにモノを言う世の中に、苛立ちと不安を感じているのだろう。とにかく、政界と一般国民社会が流動的で、境目のないものに変わっていくことが、今、すなわち昭和っ子自民党の平成人間社会への同化を試みるものかもしれない。寡頭国家がリードする熱烈競争主義グローバルな国際社会、Hとセックスの区別がつかない性生活や生も死もバーチャルのインターネット空間に政治世界もスルーしていけることが、今の日本政治と自民党議員に求められた試練なのだ。と、氏は思い込まされているんだろうな。過酷な時代になったものだ。わしも生きられないよ。(笑)
それから、首相の強権主義。《首相に選ばれてしまえば、他の議員と協議する必要はない、党の意向も聞く必要ない、自分の独断でやっていいというんだったら、これは任期の間、独裁体制を認めろという話でしょう。》一生懸命非難しているけれども、能力基準で人脈を頼らず採用するという、それこそ弱肉強食と効率の手法なんだろうね。今までは中卒だか高卒だかでも、やる気と根性で人を捌いてのし上がるのが政界(正解?)だった。それが次第に官僚志向と言われつつも、能力とかに少なくとも見えるような形での登用を進めてきたのさ。ま、分かりやすく言えば、わしみたいに資料もなく雰囲気とイメージと文字列だけで弁舌する政治家から、いろんなwebを漁って貼り付けながらそれでも詭弁を絶やさない議員を増殖させて、それが独裁っぽく見えるようになってきたのじゃないかな。何でも効率よく、クールに進めよう、というイメージが先頭を走り始めたんじゃないかと思う。
それから他議員と協議しないとか、党の意向も聞かないとか、ましてや党員の立場を考えずに解散という試練を下すなど、職業軍人を公職追放するように、職業政治家の政界復帰を困難にする。そんな時代が来たんじゃないかと。
でも、今の国民の6割だか何だか知らないが、それをアホとするところに誰とも変わらない恐怖を感じる。それはみんな同じで、母親を薬物で殺そうとする女子高生は頭がヘンで、街宣車で軍歌を流して走る奴らは吉外で、中国や北朝鮮に頭下げて帰ってくる外交官は自宅に爆発物を仕掛けられても当たり前という攻撃をやめようとしない。常にわかんないままでシャットダウンしてしまって、氏ねよ氏ねよと言い捨てる。なぁ、シャットダウンしねぇで、使えるものを探そうぜよ。既得権で飯食ってた政治家にも、流していいものと、流したくないものをもってるはずなんだ。そして平成効率文化に合わせようと躍起になっている小泉一族も、必ず平成っ子の思考にはぶつかっちまうはずなんだ。
だから、亀井氏もそうだが、自分の世代の立場ってものを怖くても保持して、心は広いけれど背骨は硬い政治家であって欲しいし、職業政治家が滅びないで欲しいと思っているのは南蛇井だけではない、と思う。
まだ滅茶苦茶な文章だなぁ