南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

心境は複雑

3週間前、上海まで送った方が昨日の午後亡くなったと、昨晩連絡を受けた。もしかすると2月にここへ戻るのは無理かもしれないとは聞いていたが、部屋代を払ってもらってネットも使えるようにしていただいて、快復を信じて2月半ばまでお留守番していようと思っていたところだったのに、ここにあるもの全部が遺品となってしまったのである。来中当初から咳がひどく、話によると出国時多少咳が出やすかったと。それが徐々にひどくなったが、河南の乾燥し汚れた空気のせいだと思ってきた。そのうちストレスが溜まってきて精神的に辛くなり、体力も低下してきたのだと考えてきた。ところが、その連絡によると、日本を出るときから肺がんの可能性をあるていど自認していたらしいのである。昨夜ネットで肺がんについて調べた。胸水がたまっているというのは、だいぶ進行しているらしいのだ。そんな可能性などちっとも思い浮かばなかった。でも、私がそういう何にも知らない役回りだったからこそ、最後の時間を有意義に過ごせたんだろう。日本にいれば、その人のバックグラウンドは周囲の人にかなり知れている。ましてや50を過ぎた方だし、相当人脈の広い方だったからなおさらだろう。だからこういうゼロの世界へ来て、その中で今までの経験を時間の許す限り生かしてみようと。きっとそんな意味だったに違いない、この留学は。
ご家族は私に大変お世話になった、とおっしゃるけれども、たった4ヶ月間でありながら、お世話になったのは私のほうである。たしかに通訳ぐらいはしたけれど、人生の経験ってのはたかが中国に1年住んだか住まないかで定まるものではない。まったく親のように若造の馬鹿を見守っていただき、人生を何度と教わったことか。繰り返しもしょっちゅうあって、聞き流したことも多かった。おろかな俺は、いまになってその記憶に重みを感じるわけだ。失って知るその大切さ。いや知っていると思い込んでいた自分をあらためて確かめさせてくれる恐ろしいもの。復習しようったってもう解答とかはないんだぜ。俺は人生の最後をともに過ごす人間として相応しかったんだろうか。図々しく何度も部屋に行ったり、晩飯の時間に電話で探したり、話を聞き流しながら飲み食いしたり。そんな俺にとても温かく接してもらって、そんなもんで良かったんだろうか。親元を離れ、他に日本人留学生が一人もいないこの地で、なんとなく甘えるだけに終わっていたような気がする。
あぁこんな結果が訪れるのなら、学校周りの飯館めぐりとかもっと早くやってればなぁ。一緒に遣り残したことは山ほどある。白菜だけの火鍋を食いに行きたい。花福や状元の炖菜をつっつきたい。清明上河図を100枚買って友人方に配るんじゃなかったのか。タクシーをチャーターして少林寺へ行って、少林Tシャツを手に入れたかった。
結局俺は常に先を期待しすぎているのじゃないだろうか。2月に戻ってくればまた会える。戻れなくても日本で会える。今この時点を大切になんて頭の中では分かっていても、実際手元がおろそかになるのは避けられないじゃない。でもそういう自然なのが今日までの他人の人生に少しでも好結果、好影響を与えていると、俺は信じたい。
実は上海に見送ってから、私の生活は大幅に乱れていた。その原因は何と言っても、相方の喪失であった。頼るものがないのと、生活に張り合いがなくなった。この虚ろな時間が10日ほど続いて、さすがに体調に来たか風邪をひいた。そして、ちょうど風邪が治りつつあり、また試験を目前にして最後の授業をきちんと出よう、風邪も治りそうだから生活規律を正して元に戻ろう、と思い、久しぶりに朝食を外で買い一コマ目から出たまさにその日。彼は逝ったのだった。これは偶然ではない。やはり前進するのが正しいのだ。そんな俺の姿を第六感で感じ取ったに違いない。だから俺は今、とても悲しく辛いけれども、前に進むことを最優先にしている。
(あと一つ。昨晩の電話で午後と聞いて、その日の午後DVDを観ているときだったか、不可解な音を思い出した。壁に穴を開けるドリルの音と、トイレに響いた何かの落ちる音。いずれもその音源や動作は確認できていない。何かを知らせる虫の声だと言えんでもない。)